仕事の依頼が大の苦手だ。僕が処理できる仕事は僕がやらないと、それは他者の労力のフリーライドに思えて、とても気が引けてしまうからだ。
しかし、僕ができることを一人でやり通すことは、ポケモンでエースポケモンに経験値を独占させるようなものであり、つまり危険だと、こないだ記事にしたばかりである。
組織として成長を生めないと、停滞や崩壊に繋がる。依頼という形で敵と戦わせ、メンバーに経験値を与えるような施策は絶対に必要なのだ。
―そんな僕の他者への依頼を阻害する要因は何か。実を言うと最近まで、その輪郭がはっきりとは見えていなかった。
しかしここ最近、その心当たりが急速に掴めている。それは「罪悪感」だ。ということで今日はその話を書いてみる。
自分がやられて嫌なことを、人にしないのを徹底するのも、また偽善である。
「自分がやられて嫌なことを人にするな」という格言が、ずっと胸に残っている。人生における初出はいつか覚えていないが、強く記憶と意識に刷り込まれているほどだ。
自分がされて嫌なことを人にしない。なるほど、素晴らしい美談だ。だが、何事も行き過ぎれば毒となる。
これがあまりにも強く刷り込まれた結果、僕は人に依頼をするのがとても苦手になったのだと感じている。なぜなら、僕は雑用の丸投げが嫌いだからだ。
引継ぎも事前情報もなく、仕事を丸投げされる。腸が煮えくり返るような怒りを何度覚えたか知れない。だから人には絶対にやらないと、昇進が内定した際、そう誓った。
しかし仕事を全く振らないのも、さっき述べた通り、組織にとって好ましくない影響を与えてしまう。すごく内省的に違いないが、僕は勝手に板挟みに苛まれている。
「俺でもできる仕事を振るのなんて申し訳ないな」という思い。「でも依頼しないと組織が育たない」という思い。この2つがずっと脳内で戦い、前者が勝ち続けている。
・・・このことは優しさではなく甘さであり、一刻も早く克服せねば、僕はリーダー失格の烙印を押されっぱなしのまま、肩書だけ長という辛い日々を過ごすことになる。
リーダーの仮面を読み返しても、そういう情を割引き、全体的な目線をもって仕事を振っていくのが仕事だと看破されている。部下の胸の内など考えなくていいと。
僕は決して、自分が楽をして、自分だけが定時で帰るため、手柄を独占するため、そして責任を逃がすため、人に仕事を依頼しているわけではない。
そういう自信というか前提さえあれば、色々任せない方が愚かだと。感情的に考えた結果誤っている。自問するうちに、少しずつ、自分の勘違いが見えてきた。
今は間違いなく、「罪悪感」を履き違えて偽善に突っ走っている。放任主義が嫌いな結果、僕は対極の立場になり、組織に迷惑をかけている。
繰り返しになるが、任せる力が無いと、極めて脆弱な組織になる。自分が支柱として支えない限り、その組織はいつでも崩壊しうるリスクと隣り合わせになるからだ。
全員のレベルを上げて、僕に近づけていく。そしていずれ、僕を超えてもらう。そのためには、鍛えるしかない。鍛えるには、依頼するしかない。
階層的な社会は、決して窮屈さを意味しない。僕は組織論について、まだまだ勘違いしている点を数多く抱え、それを修正できず、気付けてもいない。
早く手放せるところを手放して、見守るという価値観に転換していかないと、自分で自分の首を真綿で永遠に絞め続けるような日々になると、すごく焦っている。
色々見直せるべきところは、しっかりと見つめ直し、改めようと誓った。
では今日はこの辺で。