鬱的な思考について調べていると、それが極めて主観的なのがよくわかる。この人のこの言動は自分に向けられた敵意に違いない、という風に。
逆に言えば、自分が主観的になっていることを察したら、それを意識的に客観的な視点に切り替えることで、鬱の闇に呑まれることなく、距離を取れるという話になる。
―ただそれが、かなり難しい。主観的なメガネの度が強まっていることに気付くことはできこそすれ、それをかけ変えることは、やはり極めて難度が高い。
僕自身まだまだ試行錯誤の途上であり、何なら途上どころか、果たして入り口から一歩でも先へ進めているのか、時折不安になることもあるくらい、成長を感じない。
特に最近、生徒増に伴って、嬉しい話ではあるのだが、同時にストレスも溜まるという状況下に晒されている。悪夢を見ることも、正直増えた。
僕は鬱という漆黒の闇に、片足を突っ込んでいるのではなかろうか。そこから足を引っこ抜く方法の開発と習得は、急務であるとみて間違いない。
―ってことで集中的に色々とシャッフルするように試した結果、一部ではあるのだが、「あ、効果を感じる!」と思う施策が出てくるようになった。
ということで、それを言葉にすることで、一層自分の腑に落とすことを狙いとし、記事にしたためる所存である。
小説風脳内描写。
どうでもいいのだが、僕は起き抜けが一番機嫌が悪い。すごく子供じみていると思うが、朝はとにかく、ネガティブな思考が強まって手に負えない。
始末に負えないのは、機嫌が悪いことが先んじて、前の日に起きた嫌な出来事とか、その日に控えるタフな仕事が、時間軸を無視して目の前に飛び出してくることだ。
だから最近布団の中が嫌いになりつつあるのだが、とはいえ筆記開示を寝起きに行うのはすごくキツい。収拾のつかない反芻思考に苦しむのが、僕の朝のルーティンなのだ。
―そんな中試してみて良かったのが、自分が今抱えている闇を、好きな作家風に実況する、というものだ。
具体的には、こころの「先生」ならこの闇をどう手紙に書くだろうか、三島由紀夫ならどんな修辞法で表現するだろうかと、そういう目線でディスクリプションする感じだ。
これが結構よかった。時間にして10分くらい脳内に展開すると、急にスッと飽きる。ネガティブな妄想自体に、”飽き”を感じられたのだ。
それをそのままここに書き殴ると闇が深すぎるばかりか厨二感全開なので止めておくが、「いやいや、大袈裟やろオレw」と健全に自嘲する余裕さえ生まれる。
筆記用具をすぐすぐに準備できない際に使える、強力な武器だと思う。
無刺激環境下への移動。
「自分が落ち着けるところを探してぼーっとしましょう」という集中力の回復法をよく聞く。しかし、実は今まで、あまり腑に落ちていなかった。
例えば誰もいない駐車場で空を見上げてみたり、人がいない部屋でぼーっとしたり、いわゆる低刺激の場所を探して頭をクリアにしようとしたが、上手くいかない。
僕は恐らくHSPであり、人が感知しない刺激さえも感じ取ってしまうとされる。つまり、人にとっては低刺激の場所も、僕にとってはそうじゃないのかもと考えた。
そしてたまたま発見したことなのだが、僕は音を遮断すると、心が凄く落ち着くタイプらしい。つまり、聴覚優位なのだ。
それを前提に試したところ、今のところ一番いい空き時間の過ごし方は、ノイズキャンセリングイヤホンを装着して、海の映像を観ることである。
特にモントレーベイアクアリウムのライブカメラがお気に入りだ。なんというか、心が無になる。
車の音も、生徒の声も、全てを遮断し、波の音だけが鼓膜を震わせるようにする。そうして初めて、僕にとっての低刺激が実現されるのだった。
もはや無刺激環境である。これを職場に上手いこと作れないか、新しいDIYのネタが出来たように思う。
終わりに。
ということで、まだ実は2つしか作れていない。まぁ、そりゃそうだよな、と。年単位で自分の中のネックになっている部分が、そう易々と解決はしないよな、と。
とはいえ、武器がゼロの状態と、いくつかはある状態では、天と地ほどの違いがある。少なくとも、心理的に安全だと感じる気持ちは、割と強くなっているくらいだ。
こういう心を軽くする方法は、哀しいかな、鬱になってから仕入れるのではあまりにも遅い。受験前日に裏技的な公式を頭に入れるようなものだ。
皆様も自分なりの客観視方法を、早め早めに用意しておくことを、本当に強くオススメする。では今日はこの辺で。