よく考えれば、内向的な人(多分)が自分の胸の内を書き記した本は読んだことがあったが、内向的な人が内向的な人に向けて何かを書いた本は、今回が初かもしれない。
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小説とはまた違った、自己投影。だからこそ、腑に落ちるまでもかなり早く、結構なペースで読めている。それでいて、気付いていなかった学びもまた、多い。
内向的な人は、その強みを消すのではなく、活用方法を学ぶべきだ。義務教育で教えたいくらい、重要なテーマだとさえ感じる。
そんな話を、今週も読んでいくこととしよう。
- 5月22日(月) 内向的なリーダーとは
- 5月23日(火) リーダー像の誤解。
- 5月24日(水) 内向的なままで良いことと、克服する努力を放棄することは、似て非なること。
- 5月25日(木) 特性の延長に強みを見出せているか。
- 5月26日(金) なぜリーダーシップ神話は滅びないのか。
- 5月27日(土) 大局観
- 5月28日(日) 内向性とリーダーシップ
5月22日(月) 内向的なリーダーとは
内向的な人とリーダーシップ。僕からすれば垂涎ものの章に突入した。一見すると矛盾しかないこの2つの折り合いをどうつけるのか、すごく楽しみである。
とある内向的少女の例だと、場を”冷静”に仕切って、闊達に思ったことを喋る外向的な人を御しつつ、ターンを待つ別の人を指名し、上手く回すのもそうだと思う。
先頭に立って集団を率いるのもリーダーだし、集団を最も俯瞰できる位置に立ち、バランスを取るのもまたリーダーなのだ。
カリスマ性とか雄弁術とかをそれと勘違いしている人は面倒だが、世の中はそういう人をリーダーと認める習性があるというのも、ずっと前から指摘されている話である。
僕なりのリーダーの形を見つける一助になる予感がする。しっかりと読み込んでいこう。
5月23日(火) リーダー像の誤解。
「悪いヤツほど出世する」という本でも指摘されていたが、通念としてのリーダー像は、結構有害でいい加減なことも多い。
例えば、外向性はリーダーの証であるとか、全員が等しく身に着けるべきスキルである、とか。
前者はナルシストやサイコパスを過大評価し得ることに繋がるし、後者はフリーランスという働き方や価値観を完全に無視してしまっている。
内向的な人には、内向的な人に向いているリーダー像というものがある。そもそもリーダーは群れの先頭に立ち、圧倒的自信とポジティブさで引っ張る人、だけじゃない。
よく引き合いに出されるビル・ゲイツ氏やウォーレン・バフェット氏も、いわゆるトランプ前大統領的な雄弁・カリスマとは程遠いイメージを持っている。
リーダー像という通念は文化のレベルになっているし、個人単位では常識というところまで刷り込みが完了している。ここをどう自他共に解除するか。
難題だが、向き合い続けたいテーマである。
5月24日(水) 内向的なままで良いことと、克服する努力を放棄することは、似て非なること。
内向的な性格を無理に外向性へ捻じ曲げる必要は1mmも無いと考えているが、だからといって一切の努力を放棄するのもまたよろしくない。
努力をせず、「内向的だからお前らが合わせてくれんとしんどい」と言って他者をコントロールしようとする人がいたら、それは実のところ、メンタルが歪んでいる。
特別に悪くあろう、それによって注目を集めて、同情を買おう。面倒な努力を堂々と放棄しよう。そういう人は内向的に云々の前に、面倒な人だ。
内向的な人は、アドリブで、堂々と、自分が間違っていることを露ほども疑わずに人前で話すことは、多分できない。
しかし綿密に準備をして、不安をモチベーションに練習を積んでおけば、最終的に同じクオリティの発表は可能なわけで。
内向的であることを言い訳に使っていないか。厳しく自分に問い続けたいと思う。
5月25日(木) 特性の延長に強みを見出せているか。
なぜ内向的な人の、例えば高校デビューのような、自分のキャラを更新する作業は上手くいかないのだろうか。
それは恐らく、外向的な人のそれを無条件で真似しようとするからだ。斎藤一人さん的な言い方をするなら、イソギンチャクがマグロになろうとするようなものである。
自分を変えなくていいんだよ、という声掛けがある。ただしそれは、努力しなくていいという意味ではなく、もっとシビアな意味だと僕は考えている。
「自分の強みを見抜いて、それを特化させることに集中しろ。弱みなんて今はどうでもいい。圧倒的強みを持てば、弱みさえ魅力や味になる!」という叱咤にも聞こえる。
沈思黙考して深く思考を潜らせられる人は、ファーストペンギンではなく、ファーストペンギンのブレインとして夢を現実に落とし込む才能があると言えるはずだ。
そういう風に自分の強みを理解し、少しの勇気を振り絞って挑戦することで、超シャイな少年が生徒会長に選ばれたという例も紹介されていた。希望のある話だ。
偏差値40の能力を50にする努力をするのではなく、55を65にするような努力をしろ。僕の耳には、「そのままでいいんだよ」という応援は、そう聞こえている。
5月26日(金) なぜリーダーシップ神話は滅びないのか。
外向的で自信たっぷりに見える所作・言動を日常的にできる人=リーダー。この危険で反例だらけな神話は、なぜ滅びないのだろうか。
科学の世界だろうと、モデルが入れ替わるには、新しい理論が観測や実験で裏付けされ、古い理論に綻びがでて、かつ旧勢力が天に召されるという過程が必要となる。
いわゆるテンプレなリーダーは、物語の主人公として非常に魅力的だ。あらゆるエンタメでも題材になっていることから、触れる機会が圧倒的に多い。
そういうモデルばかりに触れ続けて、いざそうではない人と出会うとか、自分がそうではないと悟ったとき、それを拒否せず、受容できるかどうか。
まだまだ文化が追い付いていないことが、リーダー神話が死なない理由なのではと思う。内向的な人にとってやや辛い日々は、まだまだ続きそうである。
5月27日(土) 大局観
内向的な人がリーダーになる鍵。それは大局観だと思う。(ただし自分がコントロール可能な範囲に絞れば、だ。例えばチームの風土や雰囲気はどうしようもない)
広い目線で物事を俯瞰し、必要とあれば誰よりも深く考え抜く。何も考えず直感で指すのではなく、先々に向けてできる限りの伏線を用意しておく感じだろうか。
将棋はあまりやらなくなった僕だが、仕事をするときはいつも、将棋の盤面をイメージする。ここで打った手が、どう収束し、王手となるか、似非だが考えてみるのだ。
鉄は熱いうちに打てという言葉は、本当にいつでもどこでも通用する不変の心理なのだろうか。僕はそれについて、非常に疑わしく考えている。
もちろんそれが通じるときもある。しかし、通じないときもまた、ある。いつでもその可能性とリスクには向き合いたいと思っている。
5月28日(日) 内向性とリーダーシップ
内向的な人間にリーダーは無理だ。外向的な人間は生まれ持ったリーダーなのだ。どちらにしても、極論で、的外れだと思わされる。
リーダーの像は一つではない。同じことを何度も書いている気がするが、前線に立つのも、陣の中で作戦を練るのも、天守閣に鎮座するのも、つまりリーダーなのだ。
「俺についてこい!」という熱血漢はやたらともてはやされるが、独断的に陥り易いというリスクもある。
引っ込み思案なリーダーは頼りないと思われるかもしれないが、その分俯瞰的に物事を見つめることができるという利点もある。
傾聴、アイデア出し、その他もろもろ。内向的だろうが、リーダーとして能力を発揮する術はある。たくさんの実例を読むと、勇気が不思議と湧いてきた。
―ということで今日はこの辺で。