こないだ授業に入ると、生徒の一人の機嫌がとても悪かった。何事かと思って話を聞くと、前の時間の講師から言われた一言に、すごく腹が立ったのだという。
おかげさまで僕の授業中も雰囲気がピリついてしまい、平素の何倍も疲れる時間になってしまった。言葉とは何とデリケートなのだろう。
そんな折、ふと頭に浮かんだのが、「素人のイジリは不愉快極まる」というフレーズだ。この言葉の出典は「がさつ力」である。
別に今回の一件は、僕が言ったわけでも言われたわけでも無いのだが、この言葉がパッと浮かび、そして「マジで気をつけよう」と自戒するに至っている。
今日はそんなお話をば。
「イジリ」と「悪口」の区別がついていないアホ。
イジリと悪口の境目は極めて曖昧だ。だからこそ、言った当人はイジリと思っていても、言われた側は悪口と受け取り、一種のエラーが起こる例は枚挙に暇がない。
僕なりにしっくりくる違いは2つある。1つ目は、イジリには「愛」があること、2つ目は、イジリは決して人格を否定せず、最後に笑いに繋げる高等技術であること、だ。
実際、アナウンサーがイジリをした結果、加藤浩次氏にとんでもなく怒られたというエピソードがあることから、ここを軽んじるプロの芸人はいないとみて間違いない。
つまり、プロでさえ扱いには慎重にならざるを得ない諸刃の剣、それこそが"イジリ"なのだ。(そもそも放送されている番組は、編集という作業も経ていることに注意)
だからこそ、僕らアマチュアがイキりながら「俺はイジりが上手いからよ~」と吹聴する光景は、不愉快極まるということになるのだろう。
他人の気分を害してウケてやろうだなんて本当にアホと、千原せいじ氏は本の中で嫌悪感を露わにしていた。
口は禍の元だということがよくわかる一例だと思わされる。
まずはしっかりとイジられて、イジられることを覚えて、それから初めて人をイジれんねん!
ちなみに本書の中では、せいじ氏の息子が芸人仲間からイジられて、それについて「俺はイジる側やねん!」と返した後の、興味深い指摘も載せられている。
「それはアカーン!まずはしっかりとイジられて、イジられることを覚えて、それから初めて人をイジれんねん!いきなりイジれる側に回れるか、アホ!」
みたいなセリフだったと思うが、すごく的を射ていると思う。基本、イジリ役というヤツは、イジられた経験がない。だから質の悪いイジリを飽きもせずに繰り返せるのだ。
動物がお互いに噛みつき合って喧嘩して、痛みを知りながら丁度いいところに噛みつく力を調整するようなものだと、せいじ氏は書いている。
人から何か心無いこと、薄っぺらいこと、謂れのない謎のことを言われて、正直不愉快になった経験はないだろうか。
もしそれらが頭に浮かばないのだとしたら、あなたがイジリと思っている発言は、もしかしたら悪口や暴言、放言として相手に受け取られているかもしれない。
時折Wikipediaを読んでいると驚くのだが、明るい芸人がとても暗い過去を背負っているなんてこともザラだ。
そういう辛さや痛み、苦しみを水面下に隠しているからこそ、相手に対する愛や敬意を込めることができ、イジリという達人技が成されるのではないか。
逆に言えば、そういう悲痛な何かを秘めていない限り、人をイジれているなんてバカみたいなことは思っちゃならない。そう考えている。
素人のイジリは不愉快極まる。そこを忘れず、僕は生徒たちと接し続けたいと思う。
では今日はこの辺で。