精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

講師も教員も演技が求められるから。「感情労働者」のセルフケアについてまとめておく。

この仕事(塾講師)は、広義だと【サービス業】で括られる。(教育関係という別枠にカテゴライズすることもあるが、業務内容的にはサービス業だと思う)

 

そのことからもわかるのだが、やはりこの仕事は感情労働だ。ちなみに、感情労働とは何か。これには説明兼定義がはっきりとあるので、紹介しよう。

 

相手(=顧客)の精神を特別な状態に導くために、自分の感情を誘発、または抑圧することを職務にする、精神と感情の協調が必要な労働のことをいいます。

感情が労働内容にもたらす影響が大きく、かつ適切・不適切な感情が明文化されており、会社からの管理・指導のうえで、本来の感情を押し殺して業務を遂行することが求められます。

www.kaonavi.jp

 

社会から、その仕事に携わる者にとって望ましいとされるモデルを、感情を脇において演技しつつ、業務に当たるという感じだろうか。

 

腑に落ちないかもしれないが、極端な例で考えるとすごく納得する。キャバ嬢とかまさにそうではないだろうか。

 

偏見だが、色んなオジさんの話を聞いて、その人の気持ちをよくするために、本来の想いを無視して、求められる反応をする

 

つまらない話に一切忖度せず、「つまらな~い」と言ったら、その嬢は秒でクビになるだろう。そんな面は、塾講師にも、教員にも、存在する。

 

子どもの言動に腹を立てても、懐の深い対応が求められる。弁護士を出すぞとクレームを入れられても、「出せ出せ!」と啖呵は切れず、平身低頭を繰り返す。

 

倍返しというフレーズが一時期流行ったが、それはやはり、日頃いかに皆が鬱憤を溜め込んだままで終わっているか、その反動だと思わされる。

 

肉体労働は筋肉・靱帯を酷使する。頭脳労働は脳を酷使する。しかし感情労働もまた、頭脳労働とは違う側面から、脳を酷使している

 

酷使している以上、ケアが必要なのは全て同じなのだ。しかし、感情労働は概念の提起そのものが割と最近のようであり、その具体的な術が曖昧模糊としている。

 

しかしちょっとくらいなら情報があったので、今日は転ばぬ先の杖ではないが、そのヒントをガツっとまとめておきたいと思う。

 

 

仕事の分人から切り離せる場所・時間を作る。

感情労働に携わっていると、職場の分人というものが自分にできていることを強く実感する。いわば、対顧客向けの顔だ。ペルソナと形容してもいい。

 

感情労働者に対するケアや、疲弊した従事者の体験談を読んでいると、この職場の分人を切り替えられず、別の自分を見失っている人が苦しんでいるという印象を受ける。

 

↑の本を読むとよくわかるが、職場の自分も、あくまで自分を構成する「分人」の一つだ。だから、仮面を取り換えるように、完全に封じ込めることは無理だと思う。

 

しかしそれを極力抑え込む環境は作れるはずだ。「仕事は家に持ち込まない」といったルールなどを使い、明確に「じぶん」を切り替えるということ。

 

オンオフを切り替えることを上手にできれば、ストレスはそれだけで軽減させることができると思う。

 

誰と、どこにいるときの自分は、感情労働に使う分人と一番遠いだろうか。そう自問自答する所から初めてみるのが、無難なのかもしれない。

 

物語を通じて観察・客観視する。

表面的な演技を通り越して、深層的な演技にまで突っ込むと、それはある意味プロだが、二度と戻ってこれないリスクを内包していると思う。

 

悲痛な話だが、俳優の自死が相次いだ年がある感情労働の究極体ともいえる仕事に従事し、ある意味自分の感情を偽ることを繰り返すことの闇が、そこからも感じられる。

 

演技が完成を通り越した水準までいくと、「憑依」と形容する人さえいる。同一化を通り越した先、まさにシンクロ率400%の世界である。

 

しかしその域までたどり着いてしまうと、もう戻ってこれないのかもしれない。悲しい事件の例を聞くたびに、そう思わされる。

 

だからこそ、時折自分を意識的に切り離して、客観的に眺める時間を設ける方が安心なのだと納得する。ただ、客観視とは、やはり猛烈に難しいタスクでもある。

 

僕自身試行錯誤を未だに繰り返し続けているが、最近ようやく少しだけ腑に落ちたものが存在する。それは、「現状の物語化」だ。

 

例えば、小説のキャラクターやストーリーを作る際に使える「型」は、調べると良質なものがたくさんヒットする。

xn--eckhu0e2b3a6i6dsh.net

 

これに沿いながら、仕事のときに表に出ている自分を、キャラクターとして捉え直す。この考え方が、僕にとってはしっくり来ている。

 

解像度高く自分を見つめるには、観察のスキルも求められるので、好きな本のそれを試す好機にもなっている。

 

ちなみに僕の仕事における分人をディスクリプションすると、以下の通りとなる。

 

基本的には明るくも暗くもないトーンで喋り、説明の中にシュールな笑いを入れることを好む。

 

断定口調を避けつつも、礼儀がなっていないと思われるのが嫌いなため、できるだけ敬語で会話を心掛けている。結果、セリフをしゃべっているかのような硬さがある。

 

子供を相手にした仕事に就いているが、奇声といった子供特有の騒音が非常に苦手であり、それに晒される空間を如何にして作らないかが頭痛の種となっている。

 

過去にあったクレームの一件以来、他の生徒に迷惑をかけそうな言動にイライラヒヤヒヤしており、それを表に出さないことに苦慮している。

 

手が掛かる生徒に精神を疲弊させられていないか、校舎に入っている全ての講師を気にしているあまり、自分の精神も疲れている。

 

空き時間さえあれば問題行動の対処法の事例や、発達障害に関する情報を読み漁っており、藁にも縋る思いで、毎日それを試行錯誤し続けている。

 

てな感じだ。なるほど、どう考えても神経を使い過ぎている。なら、家にいる間くらい、神経を尖らせずに済むような環境を作った方が良いような気がする。

 

―という風に、少し現実と切り離して思考ができるようになる。そういう意味でもオススメな方法なので、これからも練習したいと思う。

 

・・・ということでちょっと長くなったけど、今日はこの辺で。

 

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