精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

最近仕事してるときに、やたら心が疲れてしまう理由がわかったかも。

最近、仕事に行くのが億劫な日がある。毎日そんなだという人も大勢いるだろうが、以前はそうではなかっただけに、自身の不調に驚いている。

 

具体的には、問題行動を狙って起こしたり、多分多動・衝動性を持っているだろうと思えたりするような生徒の相手が、なぜか猛烈に疲れるという感じだ。

 

スルー出来そうな行動がスルー出来ない。忘れればよさそうな言動が頭にこびりついて離れない。本気で疲れがたまっている自分を、はっきりと感じている。

 

打つ手なしという風に諦めていたのだが・・・。本当に今日、起きてぼんやりと読書をしているときに、天啓が来た

 

理由になりそうな仮説が一つ浮かんだのだ。忘れたら元も子もないので、先にそれを端的に書く。その仮説とは、「ペルソナ(分人)のエラー」だ。

 

今日はそんな話を書いてみる。

 

 

感情労働のプロ≒〇〇のプロ。

 

ペルソナという考え方がある。簡単に言えば、場面・相手等に応じて、自分の個性を切り替えるような意味で、ペルソナとはもともと【仮面】という意味も含む。

 

表記ゆれがあるが、僕はこの言葉を、ほぼ分人と同じ意味で用いている。(もちろん、その解釈は元々の定義と異なる点があるのだけれど)

dividualism.k-hirano.com

 

ところで、なぜいきなりペルソナや分人という言葉を引っ張ってきたか。それは、ここにこそ、滅茶苦茶な疲弊の根源が潜んでいると感じたためだ。

 

こないだ感情労働についての記事を書くために色々調べるなかで、そんな仮説を持つに至っている。どういうことか、詳述する。

 

感情労働のプロは、表面的・深層的に演技をしたまま、顧客に接するとされる。いわば社会的に求められる分人を、完璧に体現している状態だ。

 

確かに、客室乗務員の方は、フライト中はいつでも、「客室乗務員の理想像そのもの」だという印象だ。徹頭徹尾、プロである。

 

不思議なもので、そういう人たちほど、スイッチが切れれば、人と喋ることすら大変に感じるほど内向的なこともある

 

オンとオフの落差が、こんな風に激しい。僕はこれを、プロに共通する1つの要素だと感じている

 

逆に、素や地の性格と近いところのキャラクターで仕事をしている人ほど、意外と打たれ弱いというか、ダメージについての耐性が無いような印象を覚えている。

 

これはどういうことなのか。自分にとって一番自信があるとか、自然体でいられる分人を傷つけられることに直結するのが、その遠因だろうか。まだ掴み損ねている。

 

しかしながら、感情労働のプロは、そのまま演技のプロという仮説を立てるのは、あながち間違いでもないだろう。むしろ本質に近いのではないかとさえ思う。

 

そして僕は、いわゆる素の自分とされる分人が、仕事におけるそれと一体化しすぎているのではないか。言い換えれば、バランスが崩れているのではないか。

 

もとい、演技を忘れているのではないか。そう思っていくと、あらゆることが急激に繋がっていく実感を得られた。

 

その原因も、一つ心当たりがある。ということで以下、項を変えて説明する。

 

自分の本心に向き合うことの”リスク”。

 

今後のために、自分の内面をしっかりと言語化する。それをテーマに一時期、集中的に哲学とか仏教の話を調べて、色々考えていた。今もそれは習慣として継続している。

 

こうして本心に向き合うことは、それ自体もちろん有意義だったと思うが、一つあるリスクがあることを見落としていたように思う。

 

それは、ある特定の分人のみに偏って解像度が上がり易い、というものだ。僕は基本的に言語化は職場でやっていたのだが、やっていたのは原体験の洗い出しが主だ。

 

その原体験は、大体が仕事とは関係がない。子どもの頃から現在まで、自分が都度感じていたことなどを拾いながら点を繋げていく作業に、あまり仕事は絡まない。

 

だからこそ、仕事で使う分人とは違う側面ばかり掘り下げつつも、それを行っていたのが職場だったため、色々とエラーが出たのではないか。

 

言い換えれば、僕のオリジナルに当たる個性が、社会的な分人になるというアンバランスな状態に、結果として”してしまった”のではないかというのが、暫定解だ。

 

ところで、僕のオリジナルとでもいうべき分人は、非常に脆い。専門用語的に言えば、たぶんHSS型HSPであり、刺激を求める癖に、その耐久性がクソ雑魚なタイプだ。

 

加えて自責思考が強く物事を客観的に受け止めて、感情を割引いて対処するのが難しい。そんな生き辛い個性が、僕という人間の、恐らくベースとなっている。

 

それゆえに、切り分けたペルソナで自己を保護する必要があるという論理にはすごく納得する

 

むしろ、ペルソナで守っていなければ、僕という人間は即座にズタズタになるのではないか。本当の自分は、繭に包まれた幼虫よりも、ずっとずっと弱いようだ。

 

鋼の錬金術師ホムンクルスの雰囲気に似ている。そう思った。だから僕は、意図的にペルソナを作り直す必要がある。でなければ、先に心が折れる

 

というより折れる段階まで片足を突っ込んでいるからこそ、心身に不調が出ているようにも思う。残された時間は、そこまで長くないようだ。

 

―ここからはそれに関連して、僕なりのペルソナづくりについて、思うことを書いて終わりにしたいとする。

 

意識してペルソナ(分人)を切り替える。

 

仕事の際、僕はどんなペルソナを用いるべきか。本来のメンタルを守るため、徹底的に演じるべき像とは、一体何か。

 

そんなとき、一番ストレスがなさそうだと思ったのは、機能的サイコパスの思考法だ。合理的であるかどうかを軸に、感情を排して、論理で結論を出し、行動する。

僕は最近、自分の感情にアンテナをずっと張っていた。ここで一度、自分の感情を脇に置いておくのもいいだろう。

 

「この感情が無ければ、自分は何をする?」「このシチュにおいて、利益・幸福の総量が増す選択肢はなんだ?」「ここで行動しないリスクはなんだ?」

 

矢継ぎ早に自問自答し、出た結論はさっさと実行する。その練習の機会は、今日早速訪れた。

 

それは、低学年向けコンテンツで起きた。ある生徒の機嫌がすこぶる悪く、間違えたことに感情が爆発しかけ、エスケープしたまま戻ろうとしない有様だったのだ。

 

それについて、僕の感情は、それをうまく制御できない、そして彼の気持ちに寄り添えない僕自身を責めたが、自覚した瞬間、考え方を変えた。

 

「前提として、他の生徒に迷惑をかけてはならない」「逆に、他の生徒に迷惑となっていないのなら、それでいいじゃないか」という風に

 

ということで今日は僕がベタ付きで、塾にあるパズルを使って一緒に遊ぶことに徹した。(この日できなかった問題は全て宿題にして渡した)

 

感情的に考えればトンデモナイかもしれないが、その生徒もそうだし、無理強いして癇癪なんて起こされたら、全生徒からクレームが来る。

 

これもまたある意味一つの大義。そうとだけ思って、それ以上は考えるのを止めた。このペルソナに、自省の時間は必要ない

 

感情的な反省は、ペルソナを取った後に出てくる僕が、暇だったらやるだろう。それで割り切った。そして割り切ることが上手くできたら、心が凄く楽だった

 

もちろん深層的な部分にストレスは溜まるに違いないので、ペルソナを用いる限り、オフの過ごし方にも一層工夫がいるだろう。

 

しかし一つの突破口が見えた今、大袈裟だが世界の見え方さえ異なっている。明日もまた、機能的に考えて、愚直に行動ができればと思う。

 

ということで今日はこの辺で。

 

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