僕は人の話を聞くのがとても苦手だ。先生の話が始まると、数分も持たずに窓の外の景色が気になったり、無性にノートへ落書きがしたくなったりして、集中が切れる。
このことは学生時代から強く自覚しており、数年前にはもう克服を完全に諦めたが、今はメモという手段でカバーできると気づき、必要に応じてそれで対処している。
↑一例
そんな僕だが、時折グッと引き込まれる話に出会うことがある。それは話術のウマさなのか、コンテンツなのかはさておき、話自体にすごく集中できるのだ。
そのときは我ながら無意識なのだが、何故かちょっと笑ってしまう。「マジですげぇなぁ」という風に、自然と笑みが出てしまうのだ。
僕はどういう話を聞いたときに、「すごいなぁ」という笑みをこぼすのか。それがわかれば自分の授業へも転用ができると思って色々考えてみたが、これが凄く難しい。
圧倒的な知識量を語るだけの動画を観ても、「なんかただの知識マウントだなぁ」と感じたり、元気で楽しそうだけど指示語ばかりの話だと、「わからんなぁ」と思ったり。
「聞いた側が気分良く圧倒されるような話」を言語化するのは、とても難しいどころか、不可能に近いんじゃないか。そんな風に思っていたが、最近一つ仮説を閃いた。
今日はタイトルでバラしちゃっているけれど、その仮説について、つらつらと書いてみようと思う。
「どうしてだろう?」をひたすら掘り下げる。
その仮説とは、「どうしてだろう?」という純粋な好奇心を基にして、調べたり試したりしたことを語る人の話は面白い、というものだ。
言い換えれば、サイモン・シネック氏の講演みたいだが、「WHYから始めたトーク」は聞いててすごく引き込まれる、ということになる。
例えば昨日、以下の動画をメモを取りつつ視聴した。確かに最近、僕のFacebookにも、詐欺系投資グループの広告がよく表示されていると思ったからだ。
この説明自体も、色々な感情が伴っていると思うが、「どうしてだろう?」という疑問・好奇心から調べた話が基になっているという。
「なぜmeta社は、著名人を騙る詐欺系広告を放置しているのか?」という問い。そこから始めて掘り下げていった結果が、この動画に集約されている。
もちろん動画を実際に観てほしいのだが、僕自身は感想として、「日本って、こういうSNS系で表示される広告の質という意味で、ナメられてんだなぁ・・」と思わされた。
具体的な名前は別に出さないが、どう考えてもアヤシイ中華系っぽい通販サイトの広告がバンバン表示されたり、それこそ詐欺系・投資系の謎広告が出されたり。
実情、EUのようなこういう広告への規制が強い(法整備が進んでいる)ところでは、metaといった会社も本腰を入れて対応せざるを得なくなっているという。
そして個人的に興味深かったのが、同じく【GAFA(今は少し違うが)】の1つである「Google」の社訓、「Don't be evil」だ。
これはmeta(というよりザッカーバーグ氏)のスタンスの対比として紹介された理念なのだが、そのメッセージの簡潔さと強さには、すごく納得する感じもある。
・・こんな風に、「どうしてだろう?」から勉強を始めると、大抵は非常に多くの情報や因果関係を巻き込みながら、木がすくすくと育つように、頭の中へ展開されていく。
そして大樹のように育ち切った後で、今度は逆に枝葉末節をカットし、幹の状態にした説明を語ることで、僕らはその濃さと面白さに感動することになる、と感じている。
羽生善治氏の表現を借りるなら、「水面下に膨大で立体的な知識・経験が隠れた一手」だろうか。圧縮されたそれを紐解けば紐解くほど、こちらにも学びの扉が開く。
聴講者にも影響を与える程に、自分の学びを凝縮するためには、やはり表面的な動機、小手先の学習では、絶対に足りない。
例えば余弦定理の公式自体を空で言えるだけの講師は、「どうしてだろう?」と考えて、証明もきちんと理解して覚えている講師に、絶対に叶わない。それと似ている。
もちろん、自分が何かしらの試験問題を解くための手段と割り切っているなら、ここまで掘り下げた理解も説明も学習も要らない。
だが教える側、語る側に立った際、その売り物をさらに磨くためには、「どうしてだろう?」と問いを投げかけて、無意識下で受け入れた知識をアンラーンする必要がある。
判っているはずなのに、因果や別の側面を説明しきれない知識。実はそれが、磨けば光る原石なのかもしれない。最近はひたすら、それを探すように勉強を重ねている。
学校教育をやり終えて僕は久しいのだが、今が一番、物事を勉強していて楽しいなと、実は心の底から納得している。GWはわざと余暇をたくさん取った。勉強、しよう。
では今日はこの辺で。