最近、「優しさ」という言葉の意味合いが、自分の中で変化し続けている。これは生まれ持った気質の呼び方でもあるが、高度な職人技ではないかと思うのだ。
いわば、「優しさ」は技術だ。かなり再現性が高いやり方があり、それを丁寧に実行することで、それは狙って演出できるのではないか。最近、すごくそう思っている。

科学的な知識、仏教哲学などの教え、そしてそれらを反復実践して練習し、知見を蓄える。その集積として、「再現性のある優しさ」は醸成されてくるのではないか。
今日はまだまだ思い付きの段階にある仮説だが、だからこそ自分なりに言葉にして、この記事を通じて腹落ちさせておこうと思う。
「優しさ」とは、雰囲気+言動。

「優しい人」を頭に思い浮かべてほしい。その言動、雰囲気、器の大きさ等々、そこにはどこか、共通点があるように思わないだろうか。
ポリヴェーガル理論を少し齧ると気付くのだが、いわゆる優しい人は全員、周りにいる人をリラックスさせる力に長けていると、僕は感じている。
もっと専門的に言えば、腹側迷走神経を優位にさせるような雰囲気・言動を意識的であれ無意識的であれ発している、というのがその特徴ではないかと思うのだ。
そして色んな先例を学んでいくと、その仮説は段々と確信に変わる。懐や器の大きさを始めとする大きな意味での「優しさ」は、やはり”技”である。
悩んでいる人がいるとき、どんな声掛けをすれば、その人の心を軽くできるか。それはメッセージそのものは当然だが、声色、声量、トーンも関わってくる。
様々な要因が、自分という存在から発信されることで、どう作用するか。その工夫と観察を怠らずに磨き続け、かつそれを楽しめるか、どうか。
逆に、どのような物言いをすれば、無駄に人の反感を買ってしまうか。その場所の安心・安全を壊してしまうのかにも意識を向けて、それを徹底的に避けていく。
こういった背景を考えても、「優しく」あることは、「甘くある」こととは決定的に異なると言わざるを得ない。優しさは信念だが、甘さはただの迎合だからだ。
雰囲気という言語化困難なものを諦めずに観察し続けつつも、言動というコントローラブルなものは日々調整と研鑽を欠かさない。
優しさはその集積なのだと思うと、僕もまた改めて、身が引き締まる思いである。
自分への「優しさ」もまた技術。

と同時に、自分への優しさもまた、例えば「ぐっすり寝る」といった程度では成されないものだと思えてくる。
セルフコンパッションという言葉がある。これは、自分から自分へ、労いや慰めの言葉をかけることで、心身を整えるといった流れを指す。
僕はこの言葉自体は知っていたが、それが成し遂げたいことがイマイチ腑に落ちていなかった。だがそれも、観点を変えることで、「こういうことか」と判りつつある。
面白いことに、僕が手を焼く子と相対していたり、講師の発言に引っ掛かるものがあったりした際は、結構自分の身体に特徴的な反応が浮かんでくるのに気が付いた。
汗の量が増えたり、巻き肩になったり、呼吸が浅くなったり、胃の辺りが詰まった感じになったり、声が低くなったり。
特に声には、僕が正直ネガティブな思いを頭に浮かべていることが乗ってしまいやすいようで、そのときは生徒から「今怒ってる?」と言われることもちょこちょこある。
そういうのを察知した際、意識的にそれらを解すように最近は努めている。呼吸が浅いなら、敢えて深くする。6秒で吸って、6秒で吐く。それを10回繰り返す。
背中が丸いなら、肩甲骨を引き寄せて、下げることで、背筋を伸ばす。胸椎をしっかり張って、一層息が入っていきやすいポジションを作るのだ。
そして一つ一つの動作を敢えてゆっくり行い、声も半音程度意識して上げる。発言もゆっくり目にすることで、行動を通じて緊張・不安・苛立ちを鎮めるのだ。
まだまだ練習や訓練の途中だが、いわゆる「ヒヤヒヤ感」に囚われる時間は、既にかなり減りつつある。やっと、自愛の意味が、腹落ちしてきているのかもしれない。
「自分で自分を慰める」という言葉ではしっくりこなかった僕だが、「緊張や不安を姿勢や呼吸で解きほぐす」という考え方だと、すごく納得する。
「優しさ」を突き詰めた先には自分もいるというのはすごく面白い話だ。もっとこの辺も、どんどん深めて考え続けたいと思っている。
ということで今日はこの辺で。