精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

コミュ”少”は損をする場面が多いのですが、その理由はとっても論理的だったりする。

方々から指摘されるので、本当にそうなのか、ただその言葉をその人が使いたいだけなのか判断が難しいが、僕は「コミュ障」と評されることがある。

 

正直「どの程度の陽キャと比較してコミュ障なのか、後学のために教えてほしい」というのが本音なのだが、ぶっちゃけそれ以上の感想はあまり持たない。

 

実際、コミュ障とはコミュニケーションがうまく取れないという意味だとすれば、早合点が過ぎる面倒な陽キャもまたコミュ障になるのではないか。

 

逆に、口数が少なくても、相手に意思や意図をズバッと伝えられていれば、それはコミュ障には該当しないはずだ。そんな屁理屈を実はずっと胸に秘めている。

 

それゆえ、僕は口下手で無口キャラなのだが、だからこそ少ないコミュニケーションでで思いを伝えるのを頑張っていたように思う。なんか、努力の方向性が歪だが。

 

・・ただし、コミュ障という曖昧な言葉はさておき、コミュ”少”を放置していると、実際損しかしないんだなこの社会ではと、強く納得しつつある

 

ずっとずっと内省し続けた結果が、ここ最近は「ちょっとは周りと繋がるかぁ」になってきているのは面白くもすごく意外である。

 

今日はそこに至るまでのプロセスを、手前味噌だが書き残しておく次第である。

 

 

猜疑心が生む世界に味方はいない。

「超報復力」という刺激的なタイトルの本がある。実はこの本で説かれていることは、それこそ「善悪の屑」的な復讐方法のバイブルではない。

 

雑な要約になるが、健全に自分の能力を高めて、イジメてくるヤツとは上の次元・世界の住人になり、そいつの存在自体をどうでもよくするのを目指すスキルのまとめだ。

 

その一環として、如何に自分の周りに味方を増やすか、孤立をしないか、という科学的なアプローチが説かれている部分がある。

 

それによると、本当の意味で強い繋がりを作り、味方たりえる関係性を育むのに必要な要素は、大きく分ければ2つに絞れるらしいのだ。

 

1つは、いきなりハードルが高いと感じられる人が多いかもしれないが、頼みごとをするというものだ。

 

これは返報性の原理等の難しい理屈を出しても良いのだが、簡単に言えば、人は”頼られると嬉しい”という感覚を本能的に抱きやすいそうなのだ。

 

一方、これも面白い話なのだが、独りで何でもやって、頼みごとをしても断るような人や、援助を避けるような人ほど、実は裏でこっそり避けられる可能性が高いそうだ。

 

人の手を煩わせないことこそが社会に参画するために必要な義務のように感じる僕にとっては、滅茶苦茶皮肉で笑えてくるような真実だが、そういうものらしい。

 

そしてもう1つは、時間をかけるというものだ。知り合いから友人へ、友人から親友へ、その関係性が切り替わるのに必要なのは、実は時間の長短が大きいという。

 

時間をかけるためには、相手に対して緊張や猜疑、警戒を抱いていてはどだい無理な話である。意識的にこちらの胸の内を語り、相手の話を聞き、ラポールを築いていく。

 

では、これら2つの第一歩はなんなのか。それは、こちらからの相手や環境に対する働きかけだ。そう、端的に言えばコミュニケーションを”起こすこと”である。

 

コミュ”少”である限り、真の意味での仲間が永遠に出来ず、孤立したままスケールの小さな遊びや仕事に終始してしまうことになる。

 

このこと一つ考えても、コミュ少は損することばかりであることが凄く論理的に納得できてしまう。世界はシンプルだが、光も闇も思った以上に強いのだなと思わされる。

 

終わりに:独りで居るときも、何かと繋がっていたいことを認めよう。

 

人は”つながり”を得ていると、安心・安全を覚えるのだという。では、一人で居る方が好きという人もいるという事実は、こことどう折り合いを付ければいいのだろうか

 

実のところ、”つながり”の対象が生身の人間である必要は皆無らしいのだ。たとえそれがアバター同士だろうが、動物だろうが、そことの繋がりが、安心・安全を生む。

 

平野啓一郎氏は【私とは何か】の中で、三島由紀夫の著書を読んだ際に衝撃を受けたと語っていたが、これもまた、時空を超越した確固たる”つながり”ではないか。

 

僕らは真の孤独の中では、安心・安全を感じることはできない。5億年ボタンを押した後の世界は、どう足掻こうとも地獄なのである。

 

そういえば、ということで思いつく場面がある。僕は独りでキャンプをするのが好きなのだが、焚火をただぼうっと見つめていると、この上ない安らぎをよく覚える。

 

独りでありながら、同時に何かに包まれているかのような感覚。自然の中に自分がいるという境界線さえ曖昧になり、僕が自然の中に溶けている心持になる。

 

そんな光景を自分が見ているのか、見ていないのか、それすら感覚から消えていき、ただただ景色として、焚火の前に僕が居るという光景だけがそこに在る。

 

これ以上ない穏やかな時間が流れる。その内時間の流れという感覚さえ薄れていき、環境、自然、あらゆるものを超越した何かと僕は”つながっている”という安心を覚える。

 

能動的に働きかけることによって、僕は自然においてだけではなく、社会においてもこのつながりや安心・安全を覚えられるのかもしれない。

 

もしそうなら、コミュ少なんてチープな言い訳はここまでにして、少しはこちらから歩み寄らねばならないよな。そこまで納得すると、自然と一歩目が踏み出せそうだ。

 

そんな謎の語りになってしまったが、今日はこの辺で。

 

 

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