精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「構造」が見えると、無駄な不安が消える説。

【熟達論】の「観」の章にもあるが、「型」に成熟して無意識で扱えるようになってくると、その「型」の構造が観えてくるという。

 

例えば僕が昔野球をやっていた頃、打撃の基本において、「バットは上段に構えて、斜め45度の角度で振り下ろせ」と教わり、素振りで何千回もそれを練習したものだ。

 

だが冷静に考えると、なぜ”振り下ろす”意識を持つことで、打球が遥か彼方まで飛ぶようになるのか、なかなか直感と反している。何ならゴロばかりになりそうなのに、だ。

 

ちなみに、打者にとっては45度の角度で振り下ろす意識であっても、動作をビデオ等で見ると、無意識で打点付近で軌道が変わり、上方に飛ぶそれになっているものだ。

バッティングフォームを見てみよう - 通町ピューマーズ ホームページ(横浜市南区少年野球チーム)

 

そこから問いが発生する。では、意識を腰の回転に向けたらどうか?肘をたたむ角度を変えたらどうか?という風に。

 

それでいながら、それによって「型」全体にどういう影響が出てくるかというところまで観察できるようになる。なかなか難しいが、これが【観】だと感じている。

 

―ではなぜこんな話をしたのか。実を言うと、「構造」さえ知ったうえで確認できれば、無駄な不安が大幅に減ることに気が付いたためだ。

 

今日はそんな話をつらつらと書いていく。

 

 

手段と狙いを突き詰める。

 

このことを実感したのは、それこそまさに昨日の話だ。店舗の状況を確認する電話が別の校舎の人から掛かってきたのだが、そのセリフ選びに違和感を覚えたのだ。

 

「講師から”クレーム”になっていて・・・」「対応しないと”辞められちゃう”ので・・」という風に、どこか最悪を想起させる言い換えが際立っていたのだ。

 

言い換えればこちらの危機感を煽り、優先順位を無理矢理最上位にさせるような意図を、どこか感じるような電話だったのだ。意識的なのか、単なる癖かはわからないが。

 

と同時に、電話をしながら、「この感じ、どこかで読んだ話だなぁ」という感覚を、頭の片隅で覚えた。それは、ヤクザ・グレーゾーンの方の交渉術をまとめた本だった。

 

些細なことであっても端的に言い換えることで行動をさせる。言い方に悪意を込めまくれば、他人を操作する言葉遣いとして、これは常套手段だと書かれていたのだ。

 

また、「そういえばこの言い回し、使ってる人が他にもいるなぁ」と、別の人が頭に数名浮かんでくるところまで思考は拡散していった。

 

以前までの僕であれば、まさに相手の思うツボで、ちゃんとビビり、萎縮しまくりの対応を寝る間も惜しんで行っただろう。

 

だがそのときは、”構造”が見えた瞬間に”意図”が透けてみえた。その”意図”を考えると、興ざめというか、それに乗っかるのはアホくさいなと、正直思ってしまった。

 

そのためその日は報告こそしたが、別にリアクションはしていない。そして実際、クレームなんて温度ではなく、「ボヤキ」という感じのコメントであった。

 

もちろん完全放置はせず、一つの意見としてそのボヤキの内容には向き合っているが、「思い通りに動かしたい」的なメタは完全に無視した。

 

この経験を通じて学んだのは、構造を知っておくと、意図が見えて、無駄に煽られた不安に気付くことができるという点だ。「冷静になれる」方法の1つだと言える。

 

いわゆる実践心理術なんて意味がないというスタンスの人は多いのだが、僕にとっては、使う・使わないはさておき、使われたことに気付くという意味で大事である。

 

家にある他の本も、しっかり読み直そうと、改めて思えた。

 

背景を知り、原因を観察し、環境へ働きかける。


僕は昔、とにかく対症療法が知りたかった。例えば生徒がなるべく長い時間集中して授業に向き合うにはどうすればいいか、その方法だけを知りたかった。

 

結果、雑多な知識やスキルはたくさん仕入れることができたが、ではそれで何が変わったかというと、どこか寄せ集め感があり、自分の言葉という感じがしなかったのだ。

 

枝葉だけたくさん並んでいて、幹が無いというイメージ。この仕事を始めて2~3年はそういうちぐはぐなスカスカ感に、どこかもやもやする気持ちが拭えなかった。

 

しかしこれらのバラバラだった教えや経験則が、ここ数年でどんどん統合されてきている。そのきっかけとなったのは、教員向けの本を読み、背景を知ったことが大きい。

 

ADHD発達障害、イヤイヤ期、ギャングエイジ。これらの言葉が、単語を超えて、それを持っていると思考がどうなるかという深さをもって理解できたのはこの頃だ。

 

背景が見えてくると、相手の見え方も変わる。原因は何にあって、それを踏まえれば環境にどう働きかければいいか、仮説を立てやすくなる。

 

他責思考が自然と解され、世界と自分と他者をより俯瞰して考えることができるようになる。大袈裟だが、世界が広がるのだ。

 

数学の公式を扱う際も、ただそれを知っているだけより、証明や派生公式を理解している方が、柔軟性と応用力が高まるのに似ている。

 

枝葉が先か、幹が先か。この議論は尽きないが、僕としては、最終的に大樹になればそれでいいような気がすると感じている。

 

実際、クラスが荒れている状態で、子供の心理の基本から教科書で学ぶ余裕はないはずだ。実践的なノウハウを学び、それを乗り切って初めて、深める余裕ができる。

 

そうやって知識や経験は知恵に昇華していくんだろうなと、【大局観】で読んだヒントが急に腑に落ちた瞬間でもあった。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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