精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

好機ほど、”正しく”それに乗ること意識する。

自分で言うのもなんだが、今は”波”が来ているのを感じる。波というか、潮目というか、流れというか、何と呼んでも良いのだが、つまり好機だと感じるのだ。

 

過去に例を見ないほど短期間で一気に問い合わせが動き、ここで取りこぼさずに囲い込めれば、業績もそうだし、諸々の数値が激しく改善できるチャンスにあるのだ。

 

そんな僕が今正直に感じているのは、どちらかと言えば、良い高揚感である。「やりきったるで!!」という熱意が自分の中に湧いていて、すごくワクワクする

 

この感覚は、人生これまで味わったことがない気がする。チャンスに恵まれない寂しい人生だったというより、自分のメタがそれに冷や水をぶっかけるからである。

 

「成功は失敗のもと」「足元をすくわれる」「勝ち過ぎは凋落の始まり」といった聞きかじりの教えが脳内に反響し、調子に乗りそうな僕を必要以上になじるのだ。

 

しかし今は、完全に我ながらエキサイト状態だ。良いのかどうかわからないが、交感神経が暴走気味な気さえする。一体何が起きているというのだろう。

 

僕以上に引っ込み思案で、石橋を叩いてぶっ壊す人間はそうそういないと思えるほど、日陰に生きる方が落ち着く僕が、一体どうしたのだろうか。

 

その心当たりは1つある。それは、チャンスのときほど手を緩めてはならないと、心底納得しているという点だ。今日はそれについて、備忘録がてら書いておく。

 

 

セオリーは、負けているときは勝負せず、勝っているときは勝負する。

僕はギャンブルをやらないので、少し憶測で語る部分が多くなるのだが、麻雀などを始めとする運が絡むゲームには、ある鉄則があるのだという。

 

それは、「自分のタイミングで勝負しない」というものだ。勝負勘を磨き、流れを掴んで、好機と見るや一気呵成に攻めるのだが、それまではひたすら”耐える”という。

 

麻雀の対局時間のほとんどは”我慢”とさえ言う人もいる。そういえば似た話は、羽生善治氏の著書等でも読んだ記憶がある。

 

勝負とはある意味、本当はとても静かな世界で行われる戦いなのかもしれない。それに耐えきれなくなって好機でもないのに勝負に出た者から”勝手に”消えていく、と。

 

人は不思議なもので、ツイてないならそのときは我慢に回り、ツイてると思ったら勝負に出るというのがセオリーなのだが、得てしてその逆の行動に出がちなのだという。

 

負けているときなのに一発逆転に出ようとして、目も当てられない大敗を喫する。逆に、勝っているのに早々と場から降りて、大したことの無い点数で去っていく。

 

どちらも光景としてあるあるではないかと感じる。それを具体例として紹介したうえで、「本能に打ち克って勝負すべき時はする」という言葉が、今は頭に浮かぶ。

 

今、僕は好機だと感じている。データで見ても、それははっきりと出ている。人からもそういわれている。だから今僕がすべきことは、皆を巻き込んで勝負に出ることだ。

 

一切手を緩めることなく、例えば広報活動を改めて立案し、人海戦術上等で一気に打つ。少しでも見込みがある客には片っ端から営業を掛ける。色々できることはある。

 

確かに辛抱のときと違って、今は謎の自信が僕を支えている感覚があり、あれだけ億劫で嫌いな電話に、今はガツガツと取り組めている。好機さまさまだ。

 

それにそもそも、最初に書いた、「成功は失敗のもと」「足元をすくわれる」「勝ち過ぎは凋落の始まり」といったアドバイスは、チャンスモードが終わった後の話だろう。

 

ある種のフィーバー状態、例えば桃太郎電鉄のバブル期のようなものが去ってから、腰を据えて基盤づくりに意識を割いていけばいいのだと思っている。

 

こう考えると、「辛抱」の時間も、逆にじっくりと組織を観察して歪なところを直していくのに集中できるという意味で、活用の仕方は十二分にあると言える。

 

目に見えない流れや勢いなんてのをオカルトといって嘲笑する人もいるが、僕はこういうのを信じているクチなので、しばらくは全てのリソースを注ぎ、乗り切る所存だ。

 

苦難を乗り切る、のではなく、好調の波に乗り切る。今までにない状態だ。ショボいところで勝ちを確定させないよう、走り抜けたいと意を強くした。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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