Independentという英単語を知らない受験生はほとんどいない。映画のタイトルにも使われることが多いのもあり、一般的に知名度は高いのではないだろうか。
意味合いは大体「独立」なのだが、これはDependentという単語に、「否定」の意味も持つinがくっつくことで生まれている。
jukukoshinohibi.hatenadiary.com
ここでDependentの意味を英英辞書で引いてみる。そこには、こう紹介されていた。
needing someone or something in order to exist, be successful, be healthy
訳:存在、成功、健康の状態であるために、誰かや何かを必要とすること
・・ここには快楽の意味合いは特になく、別に病的な意味合いも僕は感じない。だが、実際はこれが依存症という言葉と混在し、区別されていないのが実情だそうだ。
それによって生じる誤解もあるという。ここにきて言葉自体の意味合いの大切さを学ぶことになるとは。なかなかに意外で面白く感じる。
今週も理科と国語が混ざったような話、しっかり読んでいくとしよう。
- 6月10日(月) 文化が変える依存の定義。
- 6月11日(火) 文化と時代で異なる依存の定義。
- 6月12日(水) 依存症の子は依存症?
- 6月13日(木) 依存とメンタルヘルスの切り離せない観点。
- 6月14日(金) ゴコウノスリキレ。
- 6月15日(土) 深淵を覗く。
- 6月16日(日) サイコ・ロジカル。
6月10日(月) 文化が変える依存の定義。

依存を単純化して考えるのはとても難しい。特にそれが、法に触れるか否かを考えると、顕著になる。
治安が悪いところで暮らしていると、それが違反だとは気付かぬまま、コミュニティの共通言語としてクラックを嗜むというケースがある。
そういう人と、例えば裕福な家の子息がやんちゃとてマリファナを一回吸ったというのを、同列で扱うのは是か非か。
これを考えるのは難しい。だから法典がありながらも、審議の場があり、情状酌量という考え方があるのかなと、ふとそう思った。
6月11日(火) 文化と時代で異なる依存の定義。

何をどれだけ摂取したら危険なのか、依存症なのかは、文化によっても大きくことなってくる。
例えば日本だと酒豪と評されるレベルの飲酒量であっても、ロシアに行けば平均以下と思われるなんてのもザラだろう。
またかつて日本では、いつでもどこでもタバコを吸うのが当たり前で、ある意味ありふれた大人の楽しみという風潮さえあった。
昔のドラマや映画を観ていると、そこかしこで喫煙シーンが登場するため、凄い光景だなと感じられる。
文化的な意味合いでも、病的とされるラインは異なってくる。歴史を学ぶ意義のひとつが、またみえた瞬間であった。
6月12日(水) 依存症の子は依存症?

僕の祖父は喫煙者だった。銘柄までは記憶にないが、晩御飯が終わった後に庭に出て、1人で紫煙をくゆらせている姿を、まだ思い出すことができる。
晩年にかけて身体がどんどん衰えていくのを心配したお爺ちゃん子だった僕は、お小遣いでニコレットを送るなど、浅はかだが微笑ましいことをした記憶がある。
そんな僕は、「タバコは良くないもので、やっぱり身体に悪いんだ」と、幼少期から自然と刷り込まれてきたように思う。
実はそれはお酒も同様で、酒豪である父親の酩酊した姿を見るにつけ、あまりいい印象を持ってこなかった。
そんな僕は、タバコこそ一時期吸ってすぐに止めたが、酒をどうしても手放せないままずるずると晩酌を続けている。今年頭に死にかけたのに、だ。
「人間失格」の葉蔵みたいな感想を自分に抱く。依存症である身内を持っていると、良くも悪くも依存性物質と身近な環境に身を置くことになる。親しみができるのだ。
そんな自分に弱さを見出して情けなくなるという感想を持つと、依存のドツボにどんどん嵌っていくことは請け合いだ。連鎖から抜け出すのは、かようにも困難なのである。
6月13日(木) 依存とメンタルヘルスの切り離せない観点。

現代のメンタルヘルスにおける問題には、多くの場合依存症が絡んでいる。このトピックを筆者が選んだ理由は、主にそれだという。
ストレスに曝されればそこからの逃げ道として、快楽を求める。それによって脳自体が変わり、苦しみを生む。
その苦しむ姿を見てきた子供や近親者は、薬物の存在が日常にある状態で生活することとなる。気付けば自分もまたストレスから逃げるため、その薬物を手に取り……
負の連鎖は、簡単には断ち切れない。そして誰も有効打を持っていないというのが現状だ。
依存症とは、複雑な社会を形成する以上、必ず出てくるバグなのだろうか。そんな悲しい結論で良いのかとも、何となく訝しく思う。
6月14日(金) ゴコウノスリキレ。
ついに最終章というより、あとがきのような部分にたどり着いた。単語数は大体8万字らしい。
乱暴に言えば、センター試験10年分以上のボリュームで、1つのテーマを読んだと言うこと。継続は力なりと言うが、その凄まじさをすごく実感している。
ただ、そこまで文字数を割いても、筆者の手応えとしては、メンタルヘルスというトピックの表面を引っ掻いた程度らしい。
仏教で言えば阿頼耶識とでも言うべき、巨大かつ自覚不可の領域を覗くとは、こう言うことか。大袈裟だが、本当に圧巻である。
6月15日(土) 深淵を覗く。

メンタルヘルスという分野ほど、掴みどころがなく膨大でありながら、その理論が日進月歩で変化し続けるものは無いのではなかろうか。
その対象が、人間の脳という、誰もが頭蓋骨の中に格納して持ち運んでいる臓器というのだから、とても興味深く感じる。
古典を読んでいても思うことだが、太古の人も僕らと同じようなことに悩みや苦労を感じ、自分自身を徹底的に分析してある程度の答えを得つつも、それはすべて途上だ。
後世にそこから先の思索を託し、それを受け取った次の世代が更新を重ねつつも、深淵を覗くには至らず、時間切れによりまた引き継がれていく。
そんなことを何百年と続けてきたはずなのに、僕らの精神世界は、その全貌が覗かれることを徹底して拒んでいるかのようだ。
自分という存在が、まさに永遠に分からないものという仮説こそ、何か深淵という言葉の恐ろしさとすごくマッチするような印象を感じている。
6月16日(日) サイコ・ロジカル。

今日でこの本を読了した。メンタルヘルスに対する誤解を少しでも減らしたいと、心を砕いた跡がいくつも伺えた。
精神が病むなんてない、甘えだと言ってくる人は、少なくとも全体論として間違えている。今は心底納得している。
自分が経験したことのない、想像できないものはこの世に存在しない。それがあるやつはバカだ、と言い張る人がいる。
悲しいかな、そういう人たちは知能テストをさせると、自信に反比例するように悪いスコアを取るそうだ。
みえない世界をきちんと考えられているかどうか。それは、頭の悪い人に笑われていることが1つのバロメーターなのかもしれない。
最後の最後に、そんな少し嫌なことを考えてしまったが、まぁいいかと思っている。
では今週はこの辺で。