精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

他人の気持ちが想像できないヤツがヤバいんじゃなくて、他人の気持ちを想像しようとしないヤツがヤバい。

「人の気持ちを理解する」「人の気持ちに立って考える」というフレーズがある。ただ、時折こういう言い回しを、理想論や偽善という風に考える人がいる。

 

とりあえず僕のスタンスとして、人の気持ちになって考えること自体は、仕事でも友人関係でも広く通用する、世の中の基本的な考え方の一つだと捉えている。

 

そもそも人の気持ちを想像できないような人は、誰からも応援されないし、誰からも感謝されない。損しかしないと思っているためだ。

 

ただ本心を言うと、一番めんどくさいのは、「他人の気持ちを想像しようとしないヤツだと思っている。この微妙な違いについて、今日は書いてみようと思う。

 

 

「俺がぱっと理解できないことは全部胡散臭い!ムカつく!」

 

人の気持ちを想像しようとしない人の他者評価には、ある特徴がある。それは、「嫉妬」だ。それに終始し、歩み寄るということを決してしないのだ。(できない?)

 

人の言動に対して、揚げ足を取ることばかりに注力する。そういう人は、人の気持ちを理解する気がないと見ていいので、付き合うだけ大変損だと言える。

 

話のネタの9割以上が愚痴で構成されている人は、今の自分が理解できないことを、努力によって「わかろう」とするという前向きな発想が無いのだと、僕は考えている。

 

幸い、オフラインだとあまり周りに存在しない類の性格なのだが、オンラインだとあちこちで見かけるため、都度嫌な気持ちにさせられてしまう

 

どうにかこうにか視界から消したいなと思っているが、それを徹底するにはSNS自体完全に封印するしかないだろうとも諦めている。

 

キャンプ場に必ず存在する蚊やハエのようなものだと受け入れて、ストレスをあまり感じないようにするのが良いんだろうなと、今は納得しているところである。

 

「わからない、けど・・」「わからない、なら・・・」

 

一方、本当に人の気持ちを理解しよう、推測しようとする器の大きい人にも、ある意味特徴的な言動があると思う。

 

まず一つは、実際にその気持ちを”体験してみる”ことだ。これが本当に上手だと思うのは、西野亮廣氏である。

 

彼はVIP向けの商品やサービスを展開しようとする時は、まず自分がVIP向けのサービスを受けるようにしていると、著書などで何度も触れている

 

実際に自分がVIPとしてもてなされる経験をすることで、どういうことを心がけてサービスを提供しているのか、どういうサービスを受けたら嬉しいかを学ぶのだ。

 

ぶっちゃけ、下手に経験値が少ない状態であれこれと他者の気持ちを推測するより、体験できる類のモノなら、そうしてしまうのが一番速くて正確だと僕も思っている。

 

もう一つは、自分の過去の体験から類推することだ。少し精度は落ちるものの、これ自体はとてもコスパが良いし、何より人として大事な考え方だと言える。

 

例えば、最近読んだ女子アナウンサーのエッセイに「可愛いだけでやっていくことはできないと気づいた幼少期」というくだりがあった。

 

これだけ聞くと、「自分のことを可愛いと思っているのか!」と謎に嫉妬したくなるが、人から何かを褒められた経験がある人なら、この真意は多分、推測できる。

 

例えば僕は小学2、3年の頃、クラスで一番100マス計算が速かった。漢字テストも30回くらい連続で満点を取っていたので。自分は頭がいいと思うのも無理はない。

 

だが、ぶっちゃけ教室なんて狭いコミュニティで一位を取ったからといって、だから何だという話である。この程度の力量でやっていけるわけなど、ないではないか。

 

僕は幸いなことに、ゆくゆくは千葉大学北海道大学に進学するヤツが同じクラスになってくれたので、全然伸びてないときにサクっと自分の鼻をへし折られた。

 

この感覚のことを伝えているとすれば、なんとか理解が及ぶ。その人は見た目が優れている(実際すごく美人さんである)し、周りからそう言われてもいたのだろう。

 

そうありながらも、俯瞰して「可愛いだけで生きていけない」と気づいたというのであれば、事情はどうあれ、単純に頭がいいと素直に感心した。

 

こう思うと、嫉妬するだけの人に比べて、僕は確実に得られるものがあったと思う。やはり、嫉妬の感情に任せると何も得られない。心底そう思う。

 

嫉妬しても、勝手に嫌な気持ちになって、ひたすらムカつくだけで、つまり何も手に入らない。嫉妬の正体など、その程度のものだ。

 

むしろその感情を意識的に切り離し、絶対にわからないはずの他人の気持ちを理解しようと試みることで、共感に繋がる行動や、類推という思考実験が始まる。

 

嫉妬や苛立ちに任せて行動するのではなく、自分が経験値を得て、自己成長に繋げられる方法を選び取っていくこと。これがすごく大事だ。

 

つくづく、そう思う。

 

終わりに。―モデル体型の意外な悩みを知って、思ったこと―

 

生まれながらにして優れている点は誰にでもあると思う。だが、それが無条件で絶対に優位であるとは、僕は思えない

 

最近知って「そうなんだ!」と思ったことに、手足が長いことの弱点というものがある。これは、いわゆるモデル体型ということだ。

 

普通、手足が長ければスタイルがいいので、そのまま勝者になれそうなものだ。誰からもちやほやされるだろう。羨ましくないと言えばウソになる。

 

確かに手足が長い人は、贅肉の無い、スレンダーな体型を維持する努力を怠らない限りは、「美」においてかなり上のカーストに居られるという。

 

だが、そのスタイルでありながら太ってしまうと、その方曰く「餓鬼みたいな体型になる」とのことだった。言われてみて、「確かに!」と思わされる、意外な指摘だ。


他にも、くびれができにくいという特徴もあるという。ただ手足が長く生まれても、それはそれで弱点と言えるものがあるんだと、心が楽になる話だと思った。

 

それこそ、比較的手足が短くても、スタイルが良いと思う人がいる。一方、手足が長くても、スタイル云々の前にアンバランスさが前面に出ている人もいる。

 

才能は無条件で良いことではなく、あくまでも一つの特徴に過ぎない。使い方や磨き方を間違えれば、強くネガティブに働くこともあるのだと思う。

 

そういう価値観や考え方を知る度に、自分の考え方をアップデートできる人。本当に他人の気持ちが想像できる人は、やはり柔軟性が高いと感じる。

 

僕はまだ、とてもその域に居るなんて、口が裂けても言うことができない。まだまだ、修行と勉強が居るなと、改めて気が引き締まる思いだ。

 

では、今日はこの辺で。

 

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