精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

僕にとっての「電話が嫌い」ということの解像度がブチ上がったので、書く。

相も変わらず電話が嫌いだ。20年以上電話が嫌いで、特に知らない人からかかってくる電話も、知らない人にかける電話も、恐怖を通り越して嫌悪感に至っている。

 

なぜ僕はこうも電話が嫌いなのか。その理由の一つは、僕がその「いやだ」という感情を、対して言語化できていないのが大きいのではないかと考えている。

 

そんな電話嫌いの僕だが、こないだまた嫌で嫌でしょうがない電話を終えた後、急に自分の「いやだ」を表現する言葉が見つかった

 

そのときは時間が無かったので、箇条書きでそれを残したのだが、この記事ではそれらを一つの記事として改めて仕上げて、色々客観視してみようと思う。

 

 

僕にとっての「電話」とは。


電話終えて、真っ先に思ったこと。それは、全く別のジャンルではあるが、これと全く同じ図式、プレッシャーを感じる場面を知っているという直感だ。

 

そのときはどうにも思い出せず、一旦諦めてコーヒーを飲んでいたら、不意にパッと閃いた。打席だ。

 

僕は昔、少年野球チームにいて、野球をしていた時期がある。そのとき、試合で打席に立ったときの構図と気分に、電話はすごく似ているのだ。

 

相手投手とは基本、「初めまして」の関係だ。そして相手が何を考えているか、それは知り様がない。そもそも知られたら投手として三流だろう。

 

そしてこちらから、マウンド上のそいつの表情は見えない。見えない相手の心理を読みつつ、時には敢えて直感を研ぎ澄ましつつ、技と技の比べ合いをする。

 

或いは、それまでの経験則を通じて、どのような癖を持っているかという仮説を立てる。時には後の先を選び、読むことをあえてストップすることもある。

 

・・・やはり、すごく似ている。僕は元々打席に入る際、緊張や不安が楽しさを凌駕したことは一度もないのだが、その時の感情がはっきりと蘇るほど、同じに思える。

 

勿論、打席に立つときの感情に似ているとわかったからと言って、それがそのまま何かしらの対策に繋がるわけではない。観察はむしろ、ここから始まるとさえ、言える。

 

そういえば僕は、そもそも電話自体が大嫌いなのだが、周囲に誰かいる状況で電話をすることは、その比じゃないほど嫌いなのを思い出した。

 

だからなるべく、電話をする際は独りになれる場所を探す。この理由は、人の目が気になり過ぎるがため、独りの空間じゃないと電話をしたくないのだと思っていた。

 

これ自体揶揄されることも多く、「それじゃだめだよ」と謎のマウントを取られることもすごく多かった。もっとも、なぜダメかの理由が不明過ぎるので、無視しているが。

 

これもまた、よくよく掘り下げていくと、解釈が変わる。まず僕は、音声だけの情報を処理することが、非常に苦手だ。具体的には、すぐに集中が切れてしまう。

 

黒板に何も書かないタイプの授業は、集中を持たせることを初めから放棄するほど自分に適していないと思っている。TOEICも、メモが取れないので嫌いだったりする。

 

電話は、声色以外の情報源がない。音声だけだと簡単に気が散ってしまう僕にとっては、他の刺激全てが、相手の話に集中する妨げと化す。

 

独りになりたいのは、そうしないと電話応対がロクにできないから。それに過ぎない。それゆえやはり集中力の高い人がうらやましいが、別に呪いもしない。

 

―ということで、僕にとっての電話とは、「野球で打席に立った時に等しいプレッシャーをもたらす」「そもそも情報伝達手段として不向きなもの」だとわかった。

 

ここに辿り着いた今、一層、この世には電話が溢れすぎているという不満が込み上げてきた。NO TELEPHONEという歌があるが、僕はそれにすごく共感する。

 

ということで今日はこの辺で。

 

 

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