今日は「何を言っているんだ?」と我ながら思う話だが、意外と「俺はできる!」という根拠のない思い込みが効果的だという気づきについて、書いておこうと思う。
最近、しんどさがなかなか消えないとずっと感じていた。もちろん現在進行形で感じているが、その原因がどうにも曖昧で、自分でもこの不調が不思議で仕方がない。
慢性疲労症候群という言葉を知ったのも、最近「疲れ」について色々と調べたからだ。一度でも心当たりを得てしまうと、全てがそれの原因に見えて仕方がない。
自分の思考、他者からの圧。自他を問わず、様々なことが僕の心を痛めつける原因のように思えてくる。精神状態もすこぶる良くない。ずっとそう思ってきた。
しかし、ふと気づいた。「そういえば、俺は元気になりたいと思っていないな」と。本当に自分でも何を言ってるんだという感じだが、確かにそうだという実感がある。
ここから繋がってくるのが、タイトルにある話だ。てことでやっとこさ、ここからが本題になっていく。
自己暗示は意外と大事だし、結構効くんじゃねーか説。
病は気からという言葉がある。僕の心身の不調も、もしかしたらただの思い込みなのかもしれない。そこで試しに、「とりあえずなんとかなる」と思ってみることにした。
今抱えている問題が何であれ、なんとかなるだろう、と。ならないわけないじゃん、と。どこか無責任に開き直っている気もするが、まずはそう捉え直してみた。
子供だましが過ぎる自己暗示だが、これが意外にも効果的だったので驚いている。具体的には、心がふっと楽になり、どこか思い詰める思考がなくなったのだ。
そして久しぶりに、無条件で自分を信じてみようという考えが湧き上がってきている。どこかワクワクする感情もあって、なんかそれだけで元気になった気分だ。
思うに、僕は当初こそ本当に疲れていたのだろうが、その内、疲れた自分を演じることにすり替わっていたんじゃないかと考えている。そのルーツはなんなんだろう。
例えば風邪などで学校を休んだときは、病人らしく過ごしてないと、普通に学校に行った人たちになんか申し訳ないと思うところが、自分の中にあったのを自覚している。
しかし、今は事情が別だ。治ってきているのなら、それを認めればいい。元気になってきた自分を肯定し、疲れている”はず”だという思い込みを演じるのを止める。
僕が無意識で自分に施していた謎の洗脳を解くカギこそ、ある意味ポジティブな思い込みなのではないか。そう考えると、なるほど、すごくしっくりくる帰結だ。
ところで最近、夏目漱石の『門』という小説を読み直している。その裏表紙を読むと、主人公の宗助は「社会の罪人として生きている」といった説明が添えられている。
僕自身、社会そのものや関わってくれた人たちに対し、恩義も勿論あるが、実は「なんかごめん」という感覚もずっと持っている。だからこそ、この説明はすごく沁みる。
迷惑をかけて、すんません。僕の恩師にも、僕の友達にも、あらゆるものにそう思っている部分がある。この自己肯定感の低さは、僕を語るに外せない一つの巨大な歪みだ。
だが、そういう謎の負い目を持っている限り、僕は永遠に元気を取り戻せないのだろう。疲労を感じても、心底疲れているとまで思い込む必要はないということか。
正直、今日も明日も明後日も嫌な仕事は控えているが、それについてもネガティブに考えるのを一旦手放し、疲れている自分を演じることをやめようと思う。
”必要以上に疲れている”と感じることなく、淡々と冷静に構えていきたい。自分がどこか動揺しているのだと、ひょんなことがきっかけで思い至り、嬉しく思う。
では、今日はこの辺で。