今日はここ最近の自分が肝に銘じていることについて、記事を書いてみる。それは、とにかく”悲愴感を出さない”というものだ。
僕はネガティブだと言われるし、自分でもそうだと思っている。しかし、それをそのまま無工夫で放出すると、実は自他ともに何もメリットがないことにも気付いている。
僕の後ろ向きな思考を、言葉にして発する。あるいは、仕草などから人に気取られてしまう。そうなると、その場全体が暗く沈み、そして淀んでいく。
こんな場に居たいなんて人はいるわけないし、そんなことをする人に人徳が積まれていくわけもない。何なら僕だって、願い下げである。どの口が、という話だが。
しかしこれは何も、徹底して無理して陽キャを演じなければいけないなんて意味ではない。ネガティブに思うのは勝手だが、それを表にやたらと出さない、という話だ。
てことでここからは、つまり何が言いたいのかを深めつつ、僕が思っていることを整理していく次第である。
ネットの声は「暗い人たち」の叫び。
先日、とある大企業が採用基準にしているのは何かという質問に、社長が直々に答えている動画を観た。それによれば、「素直でいいやつ」に重きを置くそうだ。
その根拠も聞いてみたが、素直でいいやつが多いと、組織が活気づくし、要らない軋轢も生まれないしで、言われてみればポジティブな面が多いことは素直に頷ける。
ただ、僕が一番引っ掛かったのは、そこに付いていたコメントの1つだ。それには、確かこんな感じのことが書いてあった。
結局、言いなりになるやつを欲しがるってことでしょ
これを読んだ瞬間、僕は顔をしかめてしまった。動画を観ずにタイトルだけで答えている感じ。「ひねくれれて悪いやつ」からのコメントだと、すぐに伝わってきた。
―が、同時に気付いたことがある。それは僕も、例えば「明るいやつ」「元気なやつ」を褒め称える記事やコメントを見たとき、似たようなことを思っているということだ。
「はいはい、根暗な俺に用事は無いってことでしょ」という風に、シニカルに構えてしまう自分がいる。そして似たような声に、同情や共感を抱く。
だが、逆の立場で考えたら、どうか。あからさまにネガティブで、わかりやすく暗い。そしてそんな自分を改める気もない。そんなヤツ、要るか?
考えるまでもない。ハッキリと、ノーだ。社会から爪弾きにされた側のコメントを、素直に受け取って安心するのはとても危険なのだと、身に染みて理解できる。
実際、「暗い人間は絶対に会議に入れない」とか、「そもそも採用しない」というのを公言し、徹底している会社や組織がある。僕は昔、これを確かに不愉快に思っていた。
だが、そうやって公言し、実際にそうやって選抜することで、そもそも暗いという自覚があって、直す気もない人間は、勝手にふるいにかけられる。
暗くて捻くれた人間から”嫌われる”組織は、実はうまくマネタイズができているということなのだ。石を投げた時点で、むしろ僕らは負けているということ。
・・・ここで一つ、この状況を端的に述べた言葉を紹介する。まだ読んだことはないが、「幸福論」という本に書かれている言葉らしい。
「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである。」
そしてこれを調べた際に知ったのだが、実は詳しくこれを説明している部分も、原著にはあるそうなのだ。それがこちら。
また、アランは、続けてこうも言う。
「気分にまかせて生きている人はみんな、悲しみにとらわれる。否、それだけではすまない。やがていらだち、怒り出す。」
「ほんとうを言えば、上機嫌など存在しないのだ。気分というのは、正確に言えば、いつも悪いものなのだ。だから、幸福とはすべて、意志と自己克服とによるものである。」
これを考えると、やはり「暗いという自分を自覚しながらも、それに対する努力や配慮を一切しない人間のめんどくささ」がよくわかるように思う。
自分自身の感情や気分に完全に屈服し、周囲への思いやりができていない状態。露骨に面倒なヤツより、悲愴感を出すヤツの方がよっぽど性質が悪い。僕はそう感じる。
だから無理に明るく振る舞う気もないのだが、露骨に暗い、悲愴感に近いものを言葉なり態度なりで出さないよう、しっかりと自制しようと誓っている。
そんなことを書いて、今日はこの辺で。