今日は「哀れ」という感情について、最近やっと理解できた気がするという話を書いてみる。ぶっちゃけ少し嫌な話になるのだが、このままゴリ押す。
主にメンタリストDaiGoさんのブログや著書を読んでいると、「自分より残念な人」は、素直にそうだと認めて見下してしまう方が良い、という考えが紹介されている。
例えば、どんな人にも必ず、あなたより優れた点があるのだから、クソとかそんな風に思っちゃダメ。絶対に他者はリスペクトしなさい・・といった高尚な言葉がある。
この美談をあまり真に受けず、「言うてあの野郎はつまりクソ野郎だよね」と思うことが、心を強く保ち、ストレスを少なくするのに重要だという。僕はそう解釈している。
DaiGoさんは、その感情を「哀れ」と表現している。他の言い方をすれば、「生暖かい目で見てあげましょう」とも言っていた。
だがどうにも、僕の中でそのラベリングがしっくり来ず、哀れみという感情を理解することは不完全なまま、ここまで来たという感じだ。
それが変わったのは最近のこと。ふとしたことがきっかけで、「リアプレイザル」という言葉を勉強していたとき、「これか!」と思えたのだ。これこそが、本題に繋がる。
しかしやっぱり、そこまで耳ざわりの良い話ではない。それを念頭に置いていただきつつ、こっからどんどん深めていこう。
人間の「闇の本能」を利用する。
「哀れ」という感情をきちんと理解し、建設的に活用するためには、「シャーデンフロイデ」という人間の本能を知っておきたい。
このシャーデンフロイデとはドイツ語であり、乱暴に言えば「人が不幸な目に遭っているのを知ると、不思議と心地よい感情が湧いてくる」という意味である。
これは性格の良し悪しではなく、人間の本能的な部分だ。どれだけ意識しても、ふとした弾みでどうしても時折は感じてしまうもの。それがこの思考なのだ。
では、このシャーデンフロイデと哀れみがどう繋がるか。実は、「哀れみ」とは得てして、自分よりも人生がハードモードな人に対して抱く、黒い快の感情である。
例えば、店員に対して横柄な態度を取る客を考えよう。そうすることによって、その人はそのときだけ溜飲が下がり、確かに気持ちが良いのかもしれない。
しかしその人は同時に、周囲からの尊敬を全く失っているのみならず、自分が社会を渡っていくにおいて、猛烈に不利な思考をしているのに無自覚なのだ。
素直に「可哀そうだなぁ」と思う。文字通り非常に「哀れ」だ。そして、こんな風に心底哀れむことができると、我ながら不気味だが、どこか快い感情が湧いてくる。
これは、シャーデンフロイデが発動していると言っていいだろう。決して器が大きい話ではないのだが、これ自体は素直に認めざるを得ない。
しかし、本能である以上、それを封殺することは不可能だろう。できることは、好ましい方向へ活用し、それ自体の解釈をきちんと建設的なものに変えていくことだ。
この本能を活用する方法として、例えばクレーマーなどの面倒な人間に絡まれたあと、その人が実は虚勢を張っているだけで実は非常に不幸だという認識を持てばいい。
流石に、店員に食って掛かるようなアホが、僕より人間的に上なわけが無い。社会の序列としても、下の方だろう。本当に”哀れだな”と思えばいい。
今後の人生も勝手にハードモードになるし、それに気付かないまま孤立して自滅する未来が多分待っている。シャーデンフロイデを部分的に発動させて、快さに変える。
嫌な気持ち自体をこうやって「快」の方に上書きすると、実はもう一つ良い側面がある。気持ちの切り替えが早くなるのだ。
人間、嫌な記憶こそ長く残るくせに、快楽の感情は持続しない。これは皆様も経験則としてそう感じられないだろうか。
となれば、嫌な記憶をシャーデンフロイデによって「蜜の味」にしてしまうことで、より一層意識を切り替えやすくなる、とも考えられる。
「面倒なヤツに絡まれた」と言えば嫌な記憶だが、「社会の底辺を具現化した存在を見れた」と哀れみ(とおかしみ)を以て塗り替えれば、幾分ラクに手放すことができる。
このようにして、しょうもない人間を素直にしょうもないと認め、そいつのその後や現在に在る、本人が気付いていない不幸を思い浮かべる。
これによって「ざまぁみろ」的なシャーデンフロイデの感情を少しだけ発動させることで、気持ちをやや「快」にし、心の動揺を鎮める。「哀れみ」の定義が更新される。
「哀れみ」というのは、やたらとめんどくさい相手が気づいていない不幸な点をこちらが理解し、その不幸に対して「ざまぁみろ」という気持ちを持つことで成立する。
決して、より大きな慈愛でそいつを包み込んでやることではないのだ。ちなみに釈迦も、「悪口を言ってくるヤツ?放っておけ」ということを説いていたりする。
あなたが面倒な人間じゃない限り、絡んでくるやつの方が小物かつ嫌なやつだろう。より高次な方法でなら、こっそり反撃しても良いと僕は思っている。
「哀れだな」と心底思えた際、どこかダークな快を感じられる。そしてそれは、”正しい”のだろうと、僕は納得する。
それでは今日はこの辺で。