ビジネスにおける所作、言動、行儀は、大事だということはわかっているものの、それがなぜそうなのかを腑に落とすのは、殊の外難しい。
特に「NG例」とされるもので、それがダメな理由まできちんと併記されているものはとても珍しく、「別によくねぇか?」という疑念がどうしてもくっ付いてくる。
そういうわけで、「好ましくないこと」を意識して再現することは、やっぱり簡単ではないと思えてならないのだ。何かしらの工夫をしなければならないのは自明だろう。
そう思っているのだが、その工夫について、「こうしたらいいんじゃないのかな」というアイデアの心当たりが、実はある。
それは、模擬でも実体験でもなんでもいいから、「受けてみること」だ。今日はそんな話を書いておく。
好ましくないことが、そうである理由を知る。
例えば「早口はダメ」「ゆっくり落ち着いて話しましょう」という助言がある。これ自体は「でしょうね」という感じであり、理由など特に要らない気がしている。
だが世の中には、「早口の方が説得力が増す」といった指摘もある。だからこそ、言葉を機関銃の如く発することが必ずしも悪でないだけに、解釈はそこそこ難しいのだ。
そう思っていたが、今日ある出来事があって、考えを改めようと素直に思っている。実際にそうされるという経験を経て初めて、わかったこと。
それは、早口でペラペラ言われると、なぜだかどんどん、不安になってくるのに気付いたことだ。「今、何か想定外のことが起きているのではないか?」という風に。
このとき、「やはり何かしらの説明の場においては、ゆっくりめに話した方がいいんだな」と、改めて納得できたのだ。納得ありきの意識は、とてつもなく強い。
世の中には、早口で喋ってもそういった負の部分を纏わせないプロがいることも認めるが、それはその人達が卓抜しているというだけなのだろうと考えている。
例えば、ジャパネットたかたの実演販売がわかりやすい。あれは、あの声質、キャラクター、そういったものが全て噛み合ったうえで為されるテンポなんだと思う。
そんな記事を書いていたところ、もう一つぴったりの実例ができた。仔細を書くのはやめておくが、端的に言えば、さっき滅茶苦茶不機嫌な人に応対をした。
とはいえ、当人は不機嫌という自覚は無かったのかもしれない。しかし吐き捨てるような言い方、低い声、眉間に寄った皺。総合的に判断すれば、あれは不機嫌であった。
相手のために雰囲気を解そうという意識は全く無かったのではないか。そういう人と応対した今、僕は、物凄く疲れている。無駄に精神力をガリガリ削られた感じだ。
ぶっちゃけ、こちらが気を遣ってポジティブに接するのを止めてやろうかと思うくらい、僕自身もどこか腹に煮えるものがあった。
そういえば齋藤一人氏が言っていた。「上気元(じょうきげん)でいるんだよ。そうやって人を明るくしてると、魅力のある人になるんだ」といった感じのことを。
今僕は、それを痛感している。そして同時に、猛省してもいる。多分僕も、勝手に不機嫌だ、恐い人だと思われて、雰囲気を知らん間に悪くしている側の人間だからだ。
正直言うと、「雰囲気怖いけど、話してみるといい人」は、カッコいいと思っている。ハードボイルド路線とでも言おうか。治らない厨二病が尾を引いている。
眉間に皺がある人はカッコイイ。そう思っていたが、実際にその状態で応対されると、全く気分が良いものじゃなかった。そしてまた、学んだ。
「雰囲気怖い人はその時点で値踏みされるので、結果コミュニケーションに繋がらず、いい人なんて評価にはまず転じられない。」
僕は己の薄っぺらい矜持のために、今までどれほどのきっかけを犠牲にしてきたのだろうか。思い返すと本当にくらくらする。
上気元であることも、朗らかにすることも、楽観的に物事を考えて話すことも、全ては”みんなのため”ということが、本当に理解できた。
牧歌的で呑気すぎる価値観だ、なんて斜に構えていてごめんなさい。僕は僕の思っていたカッコよさが猛烈にダサくて迷惑であることをこれから認め、色々改めます。
―この社会において、「好ましくない」ことがなぜそうなのか。腑に落ちない人はそれを、”受けてみれば”、よくわかる。
受けたくないから知識を入れているのにと、どこか逆説的だが・・・。まぁ、百聞は一見に如かず、という言葉の続きを読むと、納得はできなくもない。
百見は一考にしかず:見るだけでなく、自分で考えなければならない。
百考は一行にしかず:考えるだけでなく、行動しなければならない。
百行は一果(効)にしかず:行動するだけでなく、結果を出さなければならない。
百果(効)は一幸にしかず:結果を出すだけでなく、幸せに繋がらなければならない。
百幸は一皇にしかず:自分の幸せだけでなく、みんなの幸せを考えなければならない。
ということでこうやって学びに昇華したところで、今日はこの辺で。