いつからか僕は、「あー、俺は子供がマジで嫌いなんだなぁ」と心底納得している。それなのにこの仕事をしてるなんて妙な話だが、自覚したのは就職後だ。仕方ない。
例えば、子供がかわいいとか、子供と過ごしている時間が本当に幸せとか、そんなことを本気で言える人が、僕はどうしても信じられない。
それは世間体を気にした建前に過ぎず、心の中ではどす黒いものを必死に封印しているのではないかと、裏を僕は勝手に心配しているくらいだ。

一体、子供の何がそんなに嫌いなのか。何がそんなに許せないのか。内省は過去何度も繰り返したけど、しっくりくる回答は、自分の中にはまだ結晶化してきていない。
―そういう自分にとって手垢べとべとの自問を、またしても性懲りなく取り出してこねくり回していると、すごくしょうもない”理由”の仮説が、ふと立った。
それはあまりにもしょうもないのだが、自分にとっては割と腹落ち感が強いし、そしてそれは多分間違っていないんだろうなと、そういう風に抵抗なく受容できてもいる。
今日はそんなお話をば。人によっては、不愉快な内容になっているかもしれないけど・・。
具体的に、いつ「嫌い」と思うのか。

前もどっかで書いたが、僕はどんな子供も、それというだけで敵意・嫌悪を抱くことはない。大多数は平気なのだが、一部のタイプが超嫌い、という感じだ。
例えば、クラスのお調子者みたいな雰囲気の生徒がいる。その子が発する無駄な奇声や、あからさますぎるおふざけをずっと聞かされると、持久走以上に体力を食われる。
他には、幼児のグズりや泣き声も大嫌いだ。露骨に舌打ちとかはしないけれど、お父さんお母さんに対して、僕は心の底からその心労を推察し、とても同情する。
「多分、子育てがここまで大変だなんて、思っていなかったでしょうね・・いやはや、お察しいたしまする」という風に。
しかし我ながら度し難いのだが、例外は多々存在する。例えばお調子者っぽいアホな男子などその辺で見かけるコモンな存在だが、それに関しては基本、興味がない。
また、僕の姪っ子はよくぐずるのだが、壁一枚隔てた向こうでどれほど泣き叫ばれても、僕はスルーという優しさを発動し、平気で【熟達論】を読むこともできる。
そしてこないだ、とある複合商業施設に行ったのだが、そこでは数多の子供が奇声をと泣き声をあげながら、遊具の中を駆けまわっているという場所があった。
確かに「賑やかだねぇ」とは思ったが、苛立ちも嫌悪も、そのときはほとんど感じていない。別に微笑ましくも思っていないが、露骨に反応するほどでもなかったのだ。
上記のいずれも、それこそ校舎でやられたら本気でブチ切れる自信がある。ブチ切れた後、現状報告という体で、親にチクるということまでセットでやってしまうだろう。
許せるときと、許せないとき。許せる相手と、許せない相手。僕にとってのそのラインは極めて曖昧で、この上なく主観的だ。そういう厄介さが、そこには伴っている。
だからここからは、思いつくまま、更に内省を深めたい。例えば僕は、ヘンな響きだが、子供の頃から子供が嫌いだっただろうか?
小学生の頃に心当たりはない。中学生の頃も心当たりはない。高校生の頃も心当たりはない。大学生の頃も・・・実は、ない。
泣き声、グズり、そういったものに対し敵意や嫌悪を向けた記憶は一度もない。強いて言えば高2の頃、クラスの平穏を乱しまくっていたギャルが嫌いだったくらいである。
では20代前半はどうか。実はこの頃も、子供に対してネガティブな感情を持ってはいなかった。過去のmixiを読んでも、そんなことは全く愚痴った痕跡がない。
やはり、この仕事に就いて、何かがきっかけで、僕は子供が段々と嫌いになっていったのだと見た方が正確なのかもしれない。これはこれで、一つのヒントだ。
自分で言うのもなんだが、僕が勤める塾の客層は、どちらかと言えば低学力層が多い。すなわち、勉強に意味を見出してもいなければ、好きでもなんでもないという子達。
だから「はぁ?教わりたくもない単元を喋られて、集中なんかできっかよ!」と喧嘩を売られているのかと思う様な態度は日常茶飯事であった。(それ自体には慣れたが・・)
ただ、それ自体は僕の被害妄想で、その状態から心を開いて教えを届け、当人の成長へ繋げていくことこそがプロの仕事なんだと、30代になる直前で、そうは悟れた。
問題はもっと低学年の子だ。失礼な物言いだが、人間よりも猿に近い子達には、言語も論理も通用しない。感情のまま振る舞い、叫ぶ。周りの迷惑も、知らない。
僕が一番イライラするのは、当人がわかっているのかいないのかはさておき、周囲の学習の邪魔をするような言動だ。奇声、グズり、ルール無視、口ごたえ・・・。
優しい保育士みたいに諭したい自分もいる。一方、カミナリオヤジみたいに(言葉の)暴力でねじ伏せたい自分もいる。究極、徹底して無視したい自分もいる。
何をどうしても、当人や周囲の子の親のどちらかには嫌な顔をされる。どう駒を動かしても、何かが取られる将棋の場面のような感じ。それを思うと、今でもイライラする。
―すると、一つ思い当たることがある。今言った不快な刺激はいずれも、聴覚に起因するものだ。聴覚自体が強いストレスに繋がるケースは、存在しないのだろうか。
そんな僕が行き着いたのが、【聴覚過敏】という、発達障害にも深く関係がある(とされる)神経の特徴だ。この特徴自体、大なり小なり、僕は持っていると思う。
「特定の音を過剰に集中して拾ってしまう」「一部の音に対し、強い不快感を抱いてしまう」という説明のイチイチに、僕は強く共感した。心を揺さぶられた。
「そうか、俺は聴覚過敏だったんだ!」という確信を得た刹那、僕の中でエポケーが生じた。「仮にそうだとしたら、なんで人生の序盤は平気だったんだい?」
・・・・・・。
「聴覚過敏 後天」という言葉を調べてみた。だが、僕が期待した答えは、そこに並ばない。僕の仮説は、確信を抱くにはあまりにも穴だらけだったのだ。
なぜだ、なぜだ、なぜなんだ。自分が最初から嫌いなものについて、「まぁ生まれ持ったもんだよね」というオチをつけて忘れてしまうのは、あんなにも簡単なのに。
僕はチーズが嫌いなのだが、それが何故かを考えたことは一回もない。一方、ピーマンは克服したのだが、そこに至るプロセスを顧みたことも、一回もない。
そうやって堂々巡りを何周も何周も繰り返した結果、再び頭の上に電球が飛び出した。
「普段は温厚な母親が、ふとした時に子供にキレてしまうあの場面に似ている!!」
ついつい子供に怒鳴ってしまったと、後々猛烈に悔やむ。ああいうとき、心の中では何が起きているのか。それは、考えたらすぐに分かった。機嫌が悪いときだ。
もしかして、という問いを初めとして、色々なクエスチョンが、自分の中で数珠の如く繋がっていく。
先の例を再考する。姪っ子がギャン泣きしても、なぜ僕はキレないか。それは単に、僕が実家に居て、仕事から離れて寛いでいることが大半だからではないか?
また、ショッピングモールの一幕も、僕がプライベートで買い物に来ている際の出来事なので、数多の子供ががやがやしててもスルーできたということではないだろうか?
そして僕が、「あー、俺、子供嫌いなんだなぁ」と思うときは、実はタイミングが決まっていることに思い至った。仕事中か、仕事後なのだ。
どんどん、確信に変わる。もしかして・・・。いや、まだ結論を出すには早いな。もう少し材料を集めてみよう。
例えば「なんであのタイミングで俺はウゼェと思ったんだろうな」と”帰宅後”に振り返ろうとしたことが何度もある。
しかしいずれもその感情が全然蘇ってこず、反省については頓挫し続けている。その理由が、家というリラックスを前提とした場所にいるから、だとしたら?
閃いた電球が連れてきた仮説に、事例を一つ一つ当てはめて、その実を確認し続ける。そして・・・。やはりという、超しょうもない一仮説に辿り着いた。
それは単に僕がイライラしていると、子供の言動に我慢できなくなるという、それだけなのではないか、というものだ。
つまり、自分の機嫌が悪いことを投影しているに過ぎない、と。「今イライラしてんだから、静かにせぇやガキ!」というあたおかな八つ当たり。血の気が引いた。
僕はもっと、自分自身のストレスをマネジメントする必要があるのではないか?まさかの自愛にベクトルが向くとは思わなかったが、実はこの帰結にも根拠がある。
例えば長期休暇を経て、心身のリフレッシュを果たした後は、数日程度ならキャッキャした子供の言動にも、職場で余裕をもって受けとめることが可能なのだ。
GWやお盆、年末年始を終えた直後の僕は、本当に菩薩の如き優しさを持っていると思う。もっとも、それは持続せず、すぐに崩れていくのだが。
自覚は全然無いのだが、僕はこっそりストレスを日々、蓄積し続けているのかもしれない。子供へのいら立ちは、それが閾値を超えたサインかも。
僕は元来、短気な性格だ。それもあって、こういう反応が自動化されてしまっているのかもしれない。子供は悪くない。かといって、僕も悪くない。労いが足りないんだ。
結論としてはしょうもないのだが、そこに至るまでに積み上げた仮説の一つ一つは、この上なく大切なように思える。自愛、か。・・・最後にそうしたのはいつだっけな。
ということで今日はこの辺で。