精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「俺も老いたな」なんてことを言う贅沢は、今の自分に許されちゃいない。

今日は主に「反省」という観点から、自分の仕事に対する考えを振り返り、それを記事としてまとめてみたい。

 

僕は自分が特別仕事ができるとはつゆほども思っていないのだが、最近、そうやって卑下した水準よりもさらに仕事ができてないのではと、少し怖い実感が湧いてきている

 

同級生や後輩たちの中には、僕よりも優れた考え方や働き方をする人たちがいる。それ自体は別に当然のことなのだが、僕より優れた人の方が、周りに多い気がする。

 

それなのに、なぜ自分が肩書や責任を持って校舎を回しているのか、不思議で仕方がない。申し訳なさと焦りが入り混じった何かを、最近ずっと胃の辺りに抱えている。

 

だから何度も自問自答する。「俺はこの仕事を8年も続けているのに、仕事の本質という奴をまだ十分に理解していないのでは?」と。

 

今日はそんなモヤモヤを昇華させるまで、言葉をひたすら並べていく次第である。

 

 

「俺も老いたな」なんてことを言う贅沢は、今の自分に許されちゃいない。

 

自分の頭の回転が鈍っているという実感だけでなく、僕は自分の体力がどんどん落ちていることも強く感じ取っている。

 

例えば10代の頃はそこまで苦じゃなかった徹夜も、睡眠を犠牲にすることも、今はむしろ避けたいくらいに疲労して1日を終える。娯楽より、睡眠を僕は優先する

 

これ自体は不可抗力の流れだと思っているのだが、だからといって、それを言い訳に使うのは何か甘ったれた思考なのではないか。そう鞭打ちたい気持ちもある。

 

そう思ったきっかけは、最近、とある女性の対談動画をYouTubeで見たことだ。その方の仕事に対する考え方や姿勢は、模範とすべきそれそのものだったのだ。

 

その方は「仕事とは、起きている現状やしたいことに対して、感情を割り引き、次々に提案を出し続けることじゃないですか」と語っていた。すごくサッパリした回答。

 

その言葉を聞いて、僕は何か後ろめたい感情を抱いてしまった。内省してみると、そこにはどこか、恥と焦燥が入り混じっているように思う。

 

こういう姿勢、思考、言動。僕は急いで身につけなければ、本当に自分は、この組織は、終わってしまうという強い恐怖をはっきりと感じたのだ。

 

そのときふと、「この状況は数学の文章題に似ている」と、何故かポーンと閃いた。実際、難しい数学の問題は、一手で解答に辿り着くことは基本無くなっていく。

 

「多分こういう感じで着地するだろう」という見通しを立てつつも、「じゃあまず何ができるかな、情報は何が拾えるかな」という現状から進めることを意識する。

 

角度。数値。座標。数量。それらの情報が蓄積されていくと、「これだ!」という道筋が見える。それまでは遅くとも、それが見えれば後は一直線だ。

 

数学が苦手な人ほど、答えだけをアウトプットしようとする。一方数学が得意な人は、とりあえず手を進めようとする。そこに最たる違いがあるように僕は捉えている。

 

仕事も同じ。答えなんて、すぐに出ない場合がほとんどだし、そもそもそんなのが存在しないなんてのもザラだ。

 

答えがあればラッキーで、無ければ創るくらいの図太さと覚悟が求められる。そのためには、頭の中でウジウジ考えず、まずはとにかく一歩を踏み出すことが重要だ。

 

しかし、最近それができていない自分自身に、僕は強い疑問を感じている。「老いた」なんて自己評価を言い訳に、仕事の能力に蓋をしている自分。

 

僕にそんな贅沢は許されていない。僕は何もやり遂げていない。メタの中で自分を平手でぶっ叩き、至急目を覚まさせなければいけない!!!

 

・・・僕は現在のポジションを長く続けるつもりはなく、いわゆる「中継ぎ」だと思っている。この役職が終の何かであることは、決して無い。

 

資金、労働環境、その他もろもろを健全な状態にすることが出来たら、サッと次の人に引き継ぐことが、僕に与えられた責任かつ役割だと考えている。

 

―そのためにもやはり、年齢を言い訳にせず、腑抜けた自分の仕事の仕方と改めて向き合い、限界突破のような日々をまた送らねばならないと腹が決まってきつつある。

 

「俺も老いたな」なんてことを言う贅沢は、今の自分に許されちゃいない。それは本当にジジイになったときか、ぽっくり死んだときの楽しみにしておこうと思う。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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