僕は自愛がヘタクソだと自負している。もちろん人からも言われる。今までの人生を振り返っても、果たして僕が僕に甘かった時期はあっただろうかと、そう思いさえする。
たまに休みや空き時間ができても、それが無意味で無駄なものに思えて、別にしなくてもいいことだろうと搔き集めてきて、その時間に詰め込んでしまう。
我ながら病気だと思うのだが、休日であろうとタスクリストをしっかり作った方が安心する。それくらい何かがバグっていることを自覚している。
だから、例えば「今日はゆっくりするぞ!」と誓っても、ギチギチに釣りに行くスケジュールを立ててしまい、結果何かに追われるなど、要はオフが下手なのである。
則ち自分自身を労うことが下手。これ自体は不器用な自分の、受け入れるしかない弱点なのかと僕は諦めている面もある。だが、時にこれで、実際にエラーも起きている。
幸か不幸か、僕は身体がそこまで強くない。疲労が溜まれば簡単に片頭痛が出るし、ケアをしなければ容易にお腹を下す。内面は全くもってタフじゃないのだ。
気持ちばかりが先行し、結果肉体を痛めつけるからこそ、時に長時間の充電が必要になることもある。
そのことは適応障害で休職した際に経験則としてイヤというほど叩き込まれたはずなのに、そこから学びきれていない部分がある、と。
「プロ野球選手のようなアスリートだって、割り切ったオフを取るじゃないか」「でも、人が休んでいる間も努力しないと、追い付けないじゃないか」
自分の中のコーチが言い争っているのが聞こえるかのようだ。どうしよう、どうしようと、実際具合がそこまで良くない今も、僕は煩悶しているところである。
―そんなときふと閃いた仮説。それがタイトルにある、「自分を大事にする」というより、「自分を大事にしている人の思考・行動を真似する」方が多分ラクというものだ。
今日はこの思い付きを、なるべく建設的に深めていきたいと思う。
自分の中に存在しない概念を考えるという”ムダ”。
いきなり話は変わるが、「数学」とは人間が考え出した概念だ。(「人間は創ったのではなく発見しただけだ」と説く人もいるが、それはさておき)
だから、超基本的な公理から出発し、論理を積み重ねることによって、例えば僕らも三角形の作図を経て、ハーコートの定理になんてのに至れるかもしれない。
ただし、そこには膨大な時間と労力が伴うというのが前提だ。古代の叡智が集まって議論を交わし、あらゆる試行錯誤を何十年も経た後の発見こそが、幾何学の定理だ。
それを一個人がゼロから積み上げて発見するなんて、人生を何周すれば届く領域なのだろう。そう思えば、壮大な努力というより、とんでもない徒労という風に思えてくる。
【サピエンス全史】で読んだのだが、実際に知識を蓄積する術や発想が無かった頃は、人が死ぬ度にそういった知の積み重ねがリセットされていたという。
それゆえ、知的活動の進化は何万年もの間、果たされなかったそうだ。そこに突如として”言葉”が誕生し、それを”書く”ことが可能になった結果、一気に爆発した。
そうして人類の総計としての知恵は花開いたのであり、そういう壮大な話を踏まえても、自分の中に無い概念を開発することの不毛さが凄く際立ってしまう。
そして僕は、さながらゼロから数学を積み上げていくように、「自分を大切にすること」という概念を”創ろうと”していたという話になる。
それは余りにも迂遠だ。自分を大事にするとはどういうことか、抽象的な部分を考える前に、具体的な実践を重ねることで、暗黙知を得る方が手っ取り早い。
そのことにやっと思い至った今、とりあえず過去の本を参照にしながら、人が労いと呼ぶ何かを愚直に実行していきたいと思う。
では今日はこの辺で。