2年前、僕は独立したいという思いを何人かに伝えた。それ以来、直談判することは一度もないため、もしかしたら現実を知り、諦めたと思われているかもしれない。
或いは環境が変わった程度で満足し、消える程度の、些細な愚痴のようなものと思われたのかもしれない。だが実際はその逆、その思いは全く消えていない。
例えば、ロウソクやガスバーナーの炎は、赤々と燃えている部分よりも、青く小さくまとまっている部分の方が、温度が高いと言われる。
僕の思いも似た感じの構図で、外に向かって無遠慮に発信するような熱い段階は過ぎ去って、内側で静かに、ただこれまでより高い温度でそこに在るかのようだ。
しばらく自分自身でも言語化をしないままになっていたが、そうやって放置している間に心境の変化などは自分に起きたのだろうか。
じっくりと内面を、これから観察してみようと思う。
独立、引退、交代、中継ぎ。
ここ最近自覚しているのだが、自分だけでなく周りの人の時間やお金の使い方について、それが凄く勿体ない時間になっていると、何故か悔しさを感じるようになった。
少し内輪ネタになるが、最も利益率の低い授業形態は、実は個別授業であり、せめて講師一人に生徒は二人は欲しい。勿論多ければ多いほど、利益率は高まる。
しかし他のペアとの調整に難儀したり、自分の空き時間の作り方を誤ったりして1:1で見ざるを得ない状況ができると、僕は猛烈な歯痒さを感じるようになった。
そしてその歯痒さは、時として他人に感じてしまうこともある。空き時間を丸ごと休憩に充てたり、遅刻した生徒の授業を満額で取っていたりすると、猶更だ。
この歯痒さという感情は、実は一つの成長なのだろうか。大仰に言って、経営者の観点を身につけつつある証だと言っても良いのだろうか。
これまで「雇われ」というより「歯車」だった頃には抱いたことの無い感情。経営という言葉を学べば学ぶほど、目の前で起きている出来事の見え方が変わっていく。
やはり、自分の校舎を作りたいという思いは変わらないようだ。だから経営者としての自分に変わるべく、じわじわと深層心理が変わっているのかもしれない。
さながら、ロウソクの青い部分で、大量の水が入った鍋を温め続けるようなものだ。時間こそかかるが、いずれそれは沸騰し、水から湯へと変化する。
―しかし同時に、【独立】という言葉が本当に最適な言語化なのか、疑問符が付くようになってきてもいる。一旦、自分がしたいと思っていることを整理する。
僕は、僕以上に授業が好きな人たちに授業をさせてあげたい。いわばプロデュースの立場に専念し、自分の役割を講師からそちらへ、完全にチェンジしたい。
かつて出したこの答えは、今も僕にとっては「答え」のままだ。あらゆる思考も努力も、ここに向いているし、ここから始まっている気がする。
僕は教えることが嫌いではないが、それだけに全てを捧げるほどの熱量があるわけでもない。だからこそ、特に抵抗もなく身を退いて、新たな役割が担えるのではないか。
もっとも、【講師引退】という言葉も、誤解を生むのは承知している。それはつまり「仕事を辞めるということ」という風にしか聞こえない。
だから、もっと良い言葉があるのではないかと思う。思うのだが、現状自分が考えていることとして、教えることから軸足を抜くことには全く抵抗はない。
ところで、【独立】を最終ゴールとするなら、その途上はなんだろうか。少し考えてみたが、エリアマネージャーという肩書は面白そうだと思えた。
校舎をさらに俯瞰して統括する存在。現状の校舎長という役割は中継ぎだと感じている以上、その仕事を果たしたらすぐ、僕は引退して、監督になるのが良いのではないか。
その後は、20人程度の生徒でも、十分な利益を出せる塾を創りたいかな。今の僕のポジションは、できれば若い女性スタッフに引き継ぎたいとも思っている。
しかしながら、どう考えても今の状況は、決断を行うにはあまりにも中途半端だ。しっかりと結果を出すための準備を重ねつつ、時期を待つしかないとも思う。
二回目の直談判の日は近いのかもしれない。あのときとは比べ物にならないほどの材料を持って、僕はその日に臨みたいと思う。
では今日はこの辺で。