今日は突然だが、「嫌な気持ち」について内省を深めてみたい。最近薄々感づいているのだが、僕がシンプルに「嫌」と思う事柄は、分類が不十分なようなのだ。
「嫌な気持ち」で留めずに、更に解像度を上げて分析しようとすれば、それは大きく分けて2種類に区別することができるのではないか。これが僕の暫定解だ。
嫌な気持ちになっていることを自覚した際は、どちらに該当するかを考えれば、それに応じてより的確な手が打てる。もしそうだとしたら、とても救いになる気づきだ。
以下、それをベースにつらつらと書いていこう。
「イヤ」ってつまりなに?
嫌な気持ちを言葉にするのは難しい。当たり前に聞こえるかもしれないが、それが何故かを考えると、結構な難問だと思えてくる。
以下、僕が学んだことを乱暴にまとめながら、簡単に説明する。
実際、嫌悪感といった不快な感情は、脳の中でも原始的な部分が司るそれらだとされる。いわば、「考える」のではなく「感じる」もの。
その発生は本能に刷り込まれた部分に由来するため、言葉にするのが難しいのだと言える。まばたきをした際、その理由を問われてもすごく困るのと似ている。
こういった潜在意識・無意識とは、仏教で言うところの「末那識」にあたる部分だ。顕在意識より遥かに巨大で強力な意識のプールであり、ハックは全く容易ではない。
時折自分の呼吸や感覚を意識の力でコントロールできる達人がいるが、そこに至るまでの膨大な努力を考えると、眩暈がするような感覚を抱いてしまう。
こんな特性を学べば学ぶほど、嫌な気持ちとはつまり「嫌だ」以上のラベリングや分析ができないのだと、一時期僕は諦めていた。
しかし先述の通り、この「嫌さ」には2つの種類があるというのが、僕が得ている暫定解だ。そしてこれらは性質が異なる以上、その対処法や活用法も違ってくる。
ということで、引き続きそれの説明に入っていく。
まず一つは、反省に付随する嫌な気持ちである。例えばミスを指摘されたり、より良い解決策を後から思い出したりした際に感じる、「しまった」という感情のことだ。
こっちであれば、それを素直に受け止めて分析することで、広い意味での自己成長に直結する。そのため、余計な感情を乗せず、そのまま受け止めるのが健全だ。
「わかりました、改善します」という風に、さながら模試で点が取れなかった部分の成績表を眺めるように受け入れることで、スッと片付くことが多い。
出来れば紙に書き出すなどの工夫を入れて客観視することで、どうすれば自分に活かせるかをドライに考えたい。そうするのが、こちらの嫌感情の活用として正しいだろう。
もう一つは、好き嫌いの意味において、単純に嫌いなものに触れたことによる不快な感情だ。むしろ、こちらの方が圧倒的に多数であると、僕は感じている。
例えば、クラスメイトの男子にデリカシーのないことを言われたとき。或いは、路上に唾を吐き捨てるオッサンをみたとき。そういった際の嫌な気持ちがこれに当たる。
僕であれば、無駄に強く扉を閉めた際の「バン!」という音を聞いたとき、詭弁で論破したつもりになっている痛すぎるコメントを読んだときなんかに、よくそう思う。
これは、何か自分にとって刺さるもの、つまり無意識下では認識している自分の改善点に思い当たるから生じたものとは異なり、前向きなヒントはまず含まれていない。
潜在意識が生理的に嫌っている対象に触れたから「嫌」になったという、ただそれだけに過ぎない。要するに、時間の無駄なのだ。
こちらは反省など要らない。だが、こちらの方が切り替えるのが難しい。僕自身、自分にとってどういう働きかけをすればいいのか、まだ答えは見つけられていない。
ただ、例えば昔の人はこのヘドロのような感情を題材に、小説などの芸術を生み出すことへ昇華していたから、”創作”は良いヒントになる気がしている。
―ということで、一旦まとめよう。まず、人からの指摘や、自分が自覚している欠点に対する嫌な気持ちは、全力で向き合って見つめ直すべきであろう。
その一方、自分が得られるものが全くない、ただの嫌な感情に引きずられていると自覚できているときは、何かしらの術でその意識を切り替えた方がいい。
特に、僕は、ただ自分が嫌いというそれだけのものに触れた結果のストレスは、想像以上に強く、長く、面倒で、エネルギーを食うと感じている。
実際、後者のタイプの悪感情に長いこと捕まっていた自覚がある日は、帰宅後の疲労感が全く異なっているほどだ。身体が沈み込むかのように重く、行動意欲が湧かない。
それを考えても、今もし嫌な気持ちを抱えているのなら、それをしっかりと区分し、適切な行動や思考を取ることを意識した方がベターだと感じている。
では、今日はこの辺で。