【がさつ力】に書かれている一節に、最近ふと共感する点がある。それはざっくり言うと、「最初の自分の反応は無視する」といった感じの内容だ。
例えばやったことがない方法を提示される。自分が触れたことの無いイベントに招待される。その際は大体、人は「抵抗」や「嫌悪」を覚える。もちろん僕も、だ。
ただ同時に、そういう心理的な抵抗はただのバイアスであり、それを意識の力で乗り越えて手を付けた方が得られるものが多いということも、頭では理解している。
このバイアスを意識的に制御するには、どうすればいいのだろうか。もっと言えば、自分にどう問いかければ、こういう無駄な心理的抵抗が和らぐのか。
そんなときに記憶の底の方から蘇ってきたのが、先に紹介した「がさつ力」の一節である。この言葉は強者の論理ではなく、必要な心構えなのではないか?
今日はそんなことを書いていく。
どうせ最初は拒否から入る。
よく考えれば意外なのだが、自分が今ハマっていることや、そこまで行かずとも必要だと思っているから続けている事柄が、最初から好意的であったことは、とても少ない。
今でこそ毎日読書をするが、中学・高校の頃は文字を追うことがめんどくさくて、1年に2~3冊読むか読まないかという体たらくであった。
また、今でこそ1対多数の形式で授業をすることに躊躇いは無くなったが、かつては【荒れる】という悲観的な未来ばかり想像し、効率の悪い授業をしていたものである。
これらを考えても、自分の本能や直感が告げてくる「ヤメトイタホウガイイヨ」という囁きは、そのほとんどが嘘なのではないかと思えてくる。或いは、無責任なものだ。
むしろその声に「うるせー!」と取り合わずに手を出してみたり、或いは衆人環視の下でやらざるを得ない状況に追い込まれたりした方が、やはり多くのモノを獲得できる。
自分のメタが有難迷惑にも増長させた未知への不安が、現実を超えてくることはそうそうない。単に、本能を上書きし得るほどの経験が、足りないだけの気がしてくる。
もっとも、僕らは色んなことを”知って”しまっているので、赤ちゃんみたいに本能に従うままものを口に入れたり投げたりすることは、今さらできないだろう。
そもそも子供の頃みたいに、色んなことに手を出しては、途中で放り投げるといった振る舞いを、いい年になった今やろうものなら、結構な顰蹙を買うだろう。
だからこそ、「最初の嫌悪感」を意識的に無視するには顕在意識の力が必要だし、それによって得られた経験値は、しっかりと反省・検証することで上書きする必要がある。
多動力にも書かれている【永遠の三歳児】であるためには、潜在意識へのハックと、自分の規範の書き換えが常に付きまとってくるのだろう。
そのためには膨大な経験―特に、今の自分の常識の反例に当たるもの―が必要なのだが、このとき強く参考になるのが、サイコパス性を後天的に鍛えるトレーニングだ。
面白いのだが、そのトレーニングで目指すのは、「自分が抵抗・嫌悪を感じるものを一定数集めること」だ。
例えば「人から拒絶されたらどうしよう」という恐れを打ち消すには、見ず知らずの人に片っ端からDMを送り、「10人以上から断られるゲーム」にすればいい。
面白いのだが、それを繰り返すうちに不思議とゲームの”コツ”が掴めてきて、断られること自体が難しくなっていくというメリットがあるという。
これを僕に応用するとしたら、自分がイヤだと思ったことに挑むのを毎日5つ繰り返す、みたいなゲームだろうか。するとその内、イヤだと思うこと自体が減るだろう。
これは面白い自分自由研究だと思うので、しばらく試してみようと今決めた。
ということで今日はこの辺で。