精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「他人の正義」をどこまで相手にするか問題を考える。

特に筋トレ系界隈で多いと思うのだが、自分が普段取り組んでいる方法や考え方と違うやり方を紹介している人に、厳しいことを言う人が存在する。

 

その口ぶりには、「お前は間違っている!何故かというと、俺と違うからだ!」という子供じみた論理が透けて見えて、何か胃もたれしたかのような不快感を僕は覚える。

 

例えば筋トレの種目の1つに、ベンチプレスというものがある。これは筋肥大のためには、ポンポンとテンポよく動作し、腕を脱力するのが鍵になるという。

 

だがこれは、いわゆるリフティングのようにゆっくりとコントロールしながら下ろして、1発に全身全霊を込める競技の観点から見れば、”間違い”となる。

 

ではこの際、お互いがお互いを「違う!わかってない!」と罵り合ったりマウントを取り合ったりするのは、果たして正義同士の衝突と呼んで良いのだろうか。

 

僕は正直、子供の喧嘩のようなものに思うので、冷やかに見てしまう。そしてスッと「わかりましたー」と言って引ける人の方を大人だと思うし、勝者だとも思う。

 

しかしながら、そんなことを語る僕自身も、分野によっては相手の立場を考えずに自分の正義をぶつけたくなる時が、無きにしも非ずだなと。

 

ということで今日は、せっかくなので「他人の正義」をどこまで相手にするのが健全か、一旦自分の中で区切りをつけてみたいと思う。

 

では以下、本題である。

 

 

「他人の正義」は、無条件に肯定も否定もしない。

 

他人の正義の厄介さは、↑の風刺画を見れば視覚的に理解できる。何をしようとも、その決断を非難する人は必ずいる。まずはそれを受け入れる必要があると、僕は思う。

 

厄介なのは、「他人の正義」は、ネットのアンチみたいなわかりやすい敵意を帯びているとは限らない、という点だ。時にそれは、「助言」や「忠告」に包まれている。

 

しかし、正義や正解というのはどこまでも相対的であり、絶対的なものは基本的に存在しない。それを理解している人はとても器が広いが、逆だとどうしても狭量だ。

 

先のベンチプレスの例でも、「筋トレという観点から見れば正解」で、「パワーリフターの観点から見れば間違い」というのは、矛盾ではなくただ見ている面が違うだけだ。

 

だが、それが拗れるとめんどくさい。正解は相対的なものではないと理解していない人の思考回路は、単純明快だが、すごく”痛い”。

 

「自分の方法が正しいのだから、そうではない相手は間違っている。だから非難しよう!あるいは助言して正してあげよう!」という風に。

 

アクションが過激か柔和かという違いはあるが、結局は自分の正解が絶対的なものとして考えているからこその言動なので、始末が悪いとどうしても思う。

 

だから、「他人の正義」に関して、その処し方の基本は、無条件に肯定も否定もしないことだろう。自分の軸に照らし合わせて、要るなら採用し、不要なら無視する。

 

それを無条件に受け入れ続けるから、自分の軸もブレるし、その答えを採用していない自分に対して劣等感のようなものを感じてしまうのではないか、とも思うわけで。

 

―このことに関して、DaiGo氏がある面白い返し方の例を紹介していた、とある生放送を思い出した。

 

相談主は、教えたがりな上司の存在に頭を抱えていたという。主のやり方をなじりながら否定し、その人の方法論・価値観に過ぎない何かを毎日押し付けてくるという。

 

それに対して、DaiGo氏は2つの提案をしていた。1つは「言葉では『ありがとうございます!』と受け入れつつ、完全に無視する」というもの。

 

もう1つは、「参考にしてもしなくてもいいので、とにかく自分の地位を高めることに集中すること」であった。

 

目的は同じで、つまりはそういう助言(という名のマウントや押し付け)を封殺することなのだが、それくらいのしたたかさを心に持つのはやはり必須なのだろうと感じた。

 

他人の正義を受け入れるとかけなすとか馬鹿にするとか以前に、そもそも冷静に感情を切り離して観察できるかどうか。ここが結構大事なのではと納得している。

 

それでも「自分の正義」を発信する意義。


それらを冷静に考えても、自分の正義の”発信”は、リスクを承知してでも行う価値があるのではないかと思う。

 

【論破力】にも書かれているが、万人から好かれることは無理だが、万人から嫌われることも無理という指摘がある。これには僕も同意する。

 

やや胸糞悪い話だが、アメリカ等のシリアルキラーにだって、熱烈なファンが存在する世の中だ。好き嫌いという感情は、どこか善悪を超越していると思う。

 

アンチも当然集まってくるだろうが、その中には「味方」もいる。イメージは、昆虫採集のトラップを仕掛ければ、蛾もクワガタも来るようなものだ。

 

どちらかだけを選んで集めることは不可能。だが、発信こそが味方を探すのにとても大切であることを、インフルエンサーの方々は骨身に染みて分かっているのだろう。

 

一方、自分を取り巻く全てが敵だと思う人は得てして、自分の世界に完全に閉じこもり、一切の発信や交流を断って、世間への憎しみを増大させている。

 

それが爆発すると、悲劇に繋がる。平成初期以降、一定の頻度で惨憺たる事件は発生している印象だが、その根底にはいつも孤独が隠れているように思う。

 

自分が思うことを発信する。それと正義を異にする人たちからは何かを言われる。それが”正しい”のだとすれば、どうか。

 

例えば「アンチコメントを動画1つで100件集める」ということを目標にすると、悪口を言われることが楽しくなってくる・・のだろうか。その辺は経験が追い付かない。

 

ただ、僕の落としどころは、「他人の正義」は、無条件に肯定も否定もしないし、自分の正義に対するコメントは罠に集まる蛾だと考えて放置する、くらいかなと。

 

着地点として真新しさは無いのだが、建設的なところに落とし込めたので、僕としては満足である。では今日はこの辺で。

 

 

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