精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

天使のようにしたたかに、悪魔のように繊細に。

タイトルにあるこの言葉は、【憂鬱でなければ、仕事じゃない】という本に紹介されているものの1つだ。

 

本来は逆なのだが、よくよく実際の行為を考えてみると、こちらの構図の方が何かしっくりくるなと、改めて思わされる。そんな不思議な含蓄に富んだフレーズだ。

本が今手元に無いので、記憶による適当な紹介になってしまうが、「本当に無償の施しなどあるだろうか?」みたいな問いかけがそこに載っていた気がする。

 

例えが微妙だが、それこそ詐欺師は”天使のようなしたたかさ”をもって、獲物に様々なアプローチを仕掛ける。それと似たような感じではなかろうか。

 

今日はこの言葉について、僕自身の体験を添えて、簡単に紹介してみようと思う。

 

 

一滴も無駄にしないというしたたかさ。

 

ところで、「したたかさ」とは何だろうか。ふと気になったので、辞書で意味を確認してみた。そこには、こうあった。

 

1 粘り強くて、他からの圧力になかなか屈しないさま。しぶといさま。「世の中を—に生きる」「—な相手」

 

2 強く、しっかりしているさま。「—な後見役」「—な造りの家」

 

3 強く勇猛であるさま。

「力が強く勇気があって—な豪傑である」〈魯庵・社会百面相〉

 

4 程度がはなはだしいさま。

「いと—なるみづからの祝言どもかな」〈源・初音〉

 

5 分量がたいへん多いさま。

「国の事など—に申し居たるさま見るに」〈夜の寝覚・一〉

 

恐らく僕らは無意識に、1番の意味を主に想像するだろう。したたかさとは、僕にとっても、「手強さ」とほぼ同義である。

 

或いは、2番の「しっかり」を、「ちゃっかり」に言い換えても良いかもしれない。なんだかんだで人を不幸にせず、自分のトクを設計できる人がそうだと感じている。

 

そして僕が知る限り、経営上手な個人塾の塾長さんは押しなべて、「天使のようなしたたかさ」を持っている。

 

例えばある地方の塾長さんは、花火大会の花火が上がると、授業を一旦止めて、窓から塾生と一緒にそれを観賞するということを行っている。

 

これ自体は善意というか、「良い先生」という印象を僕は持つ。だがその人は、そうやって楽しげにしている子供たちの写真を、すごく自然に、SNSで紹介もしているのだ。

 

それを見た人は、こう思う。「なんて温かみのある塾なんだ!」「結構塾生がいるなぁ」「あ、〇〇くんも行ってるんだ」という風に。

 

つまり非常に効果の高い広告材料としても、その時間を活用している。意識的であれ無意識的であれ、そこで生まれた副産物を惜しげもなく活用するこの様子。

 

僕はそこに、天使のようなしたたかさをどうしても感じてしまう。そしてこれは苦言でもなんでもなく、これくらいの構え方ができてこそ一人前なんだろうという得心だ。

 

そして今日、これは自分の話だ。夏季講習に一区切りがつくタイミングだったので、老婆心に近いのだが、アイスでもご馳走してやろうかということを思いついた。

 

だがこれだけだと、単にアイスを買ってあげるおじさんに過ぎない。更に波及効果を狙えないだろうか?その観点から考えると、いくらでも活用法は閃いた

 

アイスを口実にする形にはなるが、自習にくる理由として使える。楽し気に食ってる姿は広告としても映える。そしてこの出来事を、きっと家でも話すだろう。

 

「ご馳走してもらったし」という貸しを作ることで、夏休み後期のダレやすい時期に、自ら校舎に来て勉強するという声掛けが通りやすくなる。

 

もちろんこれら全てが計画通りに行くわけはないだろうが、ただアイスを買って渡してやる以上の価値を、その意識さえあれば生み出せそうだと気付くに至っている。

 

そしてそういうしたたかさをもって計画を立てたら、そこには緻密さが必要になる。例えば、アイスのブランドは何が良いか、どのタイミングで渡せばいいか、等々。

 

ただ善意で施しをするのも高尚な風に聞こえるが、それは見方を変えればただの自己犠牲かもしれないし、或いはとても利益率の悪い行為かもしれないのだ。

 

僕は世の中、金が全てだと思っている。金が無ければ生きていけないからだ。好きとか嫌いとかを超越した存在。交換材料に過ぎないが、命を支える柱でもある。

 

大げさだが、そんなことまで思いが至った、有意義な時間だったと僕は思う。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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