今日は、何故か昨日の夜、ふと気づいたことについて話したいと思う。ここ数日、ショート動画をザッピングしていると、嫌な気持ちになる動画が多く流れてくる。
どうやらパリオリンピックで色んなことが起きているようだが、感情的な煽りという意図が透けて見えるその動画を見ると、どうにも嫌な気持ちになってくる。
思うに、この世はこういった不快なニュースに溢れている。例えば、僕はLINEニュースが大嫌いだ。理由は、こちらを嫌な気持ちにさせたいという意図が感じられるためだ。
誰かが誰かに悪口を言った。苦言を呈して、賛否両論巻き起こっている。全く関係のない場所の悲惨な交通事故の情報。どれもこれも、嫌な気持ちになるアレコレだ。
そういった情報を目にすると、シンプルに害悪だとしか思えない。ニュースはなるべく見たくないからこそ、僕はGoogle Chromeを使い、Edgeの使用は避けている。
そしてGoogleも、使用者の嗜好を勝手に分析して、興味がありそうなニュースを表示するありがた迷惑な機能があるが、僕は速攻でそれを切った。
思うに、嫌な感情を引き起こすものは、生ゴミにたかるコバエのように、対処しなければ永遠に現れ、かつ無視するだけでは、確実に害が出てくる類のものだ。
ただ同時に、そういったコンテンツによって悪感情が湧いたとき、なかなかその気持ちが切り替えられない自分も自覚している。
その都度思う。なぜ気持ちは、簡単に切り替えられないのだろう。サイコパスや、精神修行を極めた人たちのエピソードや考え方をを聞くたびに、すごく嫉妬する。
そのとき、パッと気付いたことがある。それは、気持ちの切り替えが上手な方々が良く紹介する方法に関するものだ。
それは僕も知っているし、意識的に実行しているつもりでもあった。しかしながら、嫌なニュースで悪感情を覚えていた昨日、それをしていない自分に気が付いたのだ。
もしかして、自分がこれをやっていないから、気持ちの切り替えがうまくいかないのではないか?
今日は冒頭が長くなったが、その話をテーマに記事を書いていきたいと思う。
苦手な分野で処理しようとしてはいけないのに。
僕が気づいた自分自身のクセをまず述べる。それは、嫌な気持ちになったときほど、頭の中で処理しようとするというものだ。
修行中の僧の如く、座禅を組み、目を閉じ、静かに瞑想することで、心の中の憎悪の炎をゆっくりと鎮火する場面を想像し、そうしようとしていた。
しかしながら、デール・カーネギーの『道は開ける』といったメンタルに関する本を読んでいると、一番効果が高いとされるアドバイスは、意外とダイナミックだと気付く。
その方法こそ、「体を動かすこと」だった。体を動かすことで、余計な思考を完全にシャットアウトすることができるのだ、と。多忙な状況に身を置く、ともいえる。
実際、運動中は多くの情報の入力と出力が、同時に処理される場面が非常に多く、余計なことを考える暇が、文字通り無い。
例えば地面を踏むと、その反発を足裏でしっかりと感じられる。ボールか何かに手で触れれば、その質感といった情報を、指先の感覚で得ることができる。
その一方で、相手選手の動きやボールの軌道の予測、試合で立てた作戦を頭の片隅で覚えておくことなど、実は非常に激しく、情報処理が行われているのだ。
この忙しさこそが、ネガティブなものを打ち消してくれる特効薬だと思う。逆に、ネガティブな思考を増幅させるものは、やはり「退屈」である。
この構図を考えても、運動がメンタルに良い理由がはっきりしてくる。多くの情報処理が必要な状況にいると、どうでもいい情報・感情が自然と消えていくからである。
そして一瞬だろうと、ネガティブな感情自体からクラッチを切れば、脳はそれをスッと手放してくれる。このこと自体は、研究でも分かっている話なのだ。
だからこそ、ネガティブな思考にとらわれたときこそ、全身運動ができる環境を用意するのが最善なんだと思うし、実際にそうしている人も存在する。
もっとも、全身運動ができる環境が常にある方が、稀有だろうとも思う。だから代わりの手段として、座ったままでも頭の中が超多忙になることを持っておくのはどうか。
例えばゲームが好きな友人に尋ねるなどして、一瞬でも余計なことを考えたらクリアできなくなるそれを教えてもらっておくのはどうか。試す価値はあると思える。
ということで、まとめよう。ネガティブな思考にとらわれて、気持ちが切り替わらないときは、意外と体を動かしていないことがその原因かもしれない。
悪感情が長続きして辛いときは、勿論無理は禁物だが、体を動かすとか、激しめのアクションが求められるゲームに興じると、多分イイ。
今日はそんな提案がしたかった、ということで、この辺で終わっておく。