今日は「もし自分に子供ができたら、受験をさせるかどうか」という話をしてみたいと思う。これは思考実験と題に書いているが、実質は妄想に等しい。
さて。僕は何度も公言している通り、子供は要らないと強く思っているのだが、貰い事故的な何かによって、仮にできたという設定で、話を進めてみる。
まず、結論から言うと、僕は子供に受験をさせたいと思う。本人が何を思うかは度外視するとすれば、だが。
以下、その理由をうだうだと書いてみよう。
なるはやで自立しておくれ。
理由を端的に言うと、一概には括れないものの、受験というふるいを経た後の方が、勉強、ひいては努力を続ける環境としては整っていると思うからだ。
そこにいるのは、努力するのは当たり前だけど、効率的にやるのも普通だという前提を持った子供たちだと思っている。
そんな環境は、僕のようなひねくれた遺伝子を持って生まれた子供だとしたら、ものすごく居心地が良いのではないかと思う。理不尽なアホの少ない世界だからだ。
具体的な地名は挙げないが、心に浮かぶ、受験しなければヤバい公立高校に進学する可能性が高いエリアに住んでいるとしたら、僕は意地でも受験させる。
仮に全ての受験に失敗したとしても、別の学校に行かせる。それほど、今の時代においては環境を選べるだけに、”どこ”に子供を置くかが重要だと感じている。
もっとも、自分の子供がどれだけの能力や素質を持っているかはわからないが、僕の遺伝子を半分もらった子供である以上、有名進学校に合格するのは難しいだろう。
それでも、どの県にも「その気になれば旧帝大の実績には進学できる」ような学校があるはずだ。高望みはしない。勉学に全てを”捧げなくても”受かるところを推したい。
できれば、寮がある学校がいい。少しサイコなことを言っている気もするが、僕は子供の自立は早ければ早いほど良いと考えているからだ。
まずは僕のスタンスから述べる。僕は子供がいる限り、自分が主人公である人生を生きられないと、強迫観念の如く思っている。(それが子供が要らない理由の半分くらいである)
一般に、子供の自立とは大学進学や大学卒業を区切りとするのが一般的だが、僕はそんなに待てない。お爺さんになってしまうからだ。
仮に35歳で子供ができたとして、20歳になるまでの55歳まで、一緒に暮らし、ウザがられながらも経済的支援といった面倒を見るのは、とても厳しい。
子供の教育に対して、親ができることはほとんどない。だから、僕が親という環境をさっさと卒業してもらい、もっと豊かな人間関係のある場所で暮らしてほしい。
それを踏まえても、受験をさせて、努力が当たり前の環境に早くから置きたいし、できれば寮のある学校に進学させて、僕の手を早めに離れてくれるのが理想だ。
しかし、現実としては子供を持つつもりはないので、これはただのシミュレーションに過ぎないのだが。使う可能性があるとしたら、姪っ子への助言だろうか。
まぁ、確実に弟夫婦からは拒否されるだろうけれど。
自分が中学の頃に戻れたら、受験を選ぶだろうか。
最後に、僕が中学の頃に戻れたら、受験するかどうかということも考えてみた。実は僕は中学に入るまで、そもそも「受験」という概念を知らなかった。
その地域の教育熱が低かったこともあるだろうし、親にその意図が無かったのもあるだろうが、とにかく受験という文化や概念を知らないまま、僕は中学生になったのだ。
それを差し引いて、自分の人生というストーリーの展開を知っている今なら、どう考えるか。ぶっちゃけ、受験しておけばよかったと思う。
それくらい中学の頃、ろくでもない出会いがあったことを、未だに苦々しく思うときがあるくらいだ。人間関係をリセットしたいと思う奴は、想像以上に多いのである。
しかし、仮に受験して進路を変えていたら、より悪い人間関係を引き寄せていた可能性もあっただろう。そう考えると、人生はシンプルとはいえ、本当に悩ましい問題だ。
とはいえ受験しなかったことは、心残りというほど重たいものでもない。だから、自分が”できなかった”からと、子供に押し付ける気はさらさらない。
父親じゃないからこそ部外者として軽々しく口にできるんだろうが、これはもはや呪い以外の何物でもないじゃないかと思っている。
その点は履き違えないようにしたいと思う。では、今日はこの辺で。