精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

人が「アンチ」になる瞬間を実体験したので、ここに書く。

本当にふとしたきっかけだったのだが、今日たまたま、「人がアンチになる瞬間」を学べる一幕があった。

 

昨日、令和7年から変わるとされる大学入試の国語の問題を解いていたのだが、形式が大きく変わるというのもあり、かなり苦戦してしまった。

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その結果、独りで勝手に何をしているんだという話だが、僕は何故か自分の不甲斐なさを深く感じてしまい、はた迷惑なストレスが溜まってしまった

 

共通テストは公式に発表されているのが回答のみで、そこには解説がない。だから生徒に説明する際のヒントとしても、僕一人の観点では独り善がりになると思った。

 

そのため、いろいろなブログを参考にしたのだが、読みながらなぜだか、そのイライラがどんどんと募っていってしまったのだ。

 

例えば「この設問は難しくない」「答えはこれ以外ない」といった感想や、「美しい問題ですね」という表現が、どこかこちらを見下すメタを帯びて聞こえてしまう。

 

言い換えれば、「俺はできる側だけど、お前はできない側だからね」と念押しされている、そんな風に感じたのだ。

 

そうやって職場で独り苛立ちを募らせていた僕だが、突然あることに気が付いて、急に冷静になれたのだ。

 

その気づきとは、今の自分が抱いている感情や感覚こそ、感情的にアンチコメントをするあいつらと同じではないか、というものだ。

 

宮本武蔵ではないが、背中にはっきりと汗が一筋流れるのを感じ、己に対して心底絶望、恐怖する感覚を抱いてしまった。

 

今日は以下、それを通じて学んだ反省チックな話を書いていく。

 

 

満たされない自分、輝いている他人。

 

先の僕の構図を、まずは客観的に考えてみたい。僕はあのとき、確実にイライラしていた。そしてその理由は、頭の良い他者への劣等感だった。それは素直に認めよう。

 

僕が少なからず自信を持っていたはずの分野なのに、まるでスラスラと解くことができない。そんな難度なのに、他人は簡単に問題を解いている。

 

僕は解けない。でもその人達は解ける。挙句、「簡単です」とさえ言ってのける。そのコメント自体が、僕の自尊心に細かな傷を何本も付けてくるのを感じる。

 

劣等感と、それによる嫉妬。それが組み合わさると、煌びやかなその人たちに対して否定的な感情を抱いてしまうのだ。これはもはや敵意に近いと言ってもいい。

 

そしてこのような感情を理不尽な憤りのままに言葉にしてしまうと、僕は簡単にアンチと呼ばれる側に転じてしまう。僕は色々と瀬戸際に居たということだ。

 

だが、そのタイミングで冷静になれたのは本当に良かった。仮にそういうことをぶわっと発信していたら、未来の僕が猛烈な恥を感じながら、それを読むだろう。

 

と同時に、「こんな器の小さいことを、堂々と発信してしまった・・・」という罪悪感も強く感じるに違いない。感情の爆発は、得てしてネガティブな影響ばかりなのだ。

 

結局、アンチコメントをする人たちは、自分の劣等感やイライラからそうしているだけなのだ。有益なコメントでもなければ、親切心ゆえの発言でもない。

 

すなわち、相手にする価値は無い。自分自身がそうなりかけた経験を通じ、改めてそう強く実感した。少なくとも僕があのとき抱いた感想は、誰の役にも立ちはしない。

 

それこそ犬の糞の方が、まだ土に還ることで様々な植物にとっての堆肥の役割を果たす分、絶対に有益だ。ここで思い出すのが、メンタリストDaiGo氏の発言だ。

 

彼は徹底的なアンチアンチで、「ゴミは分別されることで資源になれるが、アンチはそれすら無い。だからゴミとアンチを同列に語るのは、ゴミに失礼」とも言っていた。

 

僕があのとき抱いた感情も思考も、まさに”ゴミに失礼”なカスっぷりであった。いやはや、猛省し切りである。では、今日はこの辺で。

 

 

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