今日は自分への戒めとして、この前期を振り返って思うことをきちんと言語化し、今後より”計画的かつ我武者羅に頑張る”ための整理をしてみようと思う。
正直に言えば、今年度の数値はここ数ヶ月で低迷している。自分自身の通知表がゴミみたいな数値になっているように思えて、ぶっちゃけ色々返上したいくらいしんどい。
もっともらしい原因を分析して、コンサルタントみたいにそれをただ並べることはもちろん可能だが、それを対策に活かせなければ何の意味もない。
少子高齢化などの外的要因の存在は理解しているが、仮にそれが最たる原因なら、他塾も全く同じ理由で経営不振に喘いでいるはずだ。
てことで外的要因はあくまでも参考材料程度に留めつつ、なるべく僕自身の働きかけでコントロール可能な事柄に絞り、2024年の反省とこれからを考えたいと思う。
課題点と救世主の存在。
毎度毎度の反省だが、やはり計画性の欠如が大きな問題だと感じている。2024年の前期は、漠然とした目標に依存した結果、思うように成果が出なかったのが正直な感想だ。
この反省を踏まえるなら、やはり後期は、具体的な長期計画をさっさと立てて、基本はそれに沿って行動し、都度修整するという流れを忠実に追っていくべきだろう。
もっとも、これこそ僕が最も苦手にしていた部分なのだが、ここ最近は救世主の登場により、ずいぶんマシになっているという話を、こないだ書いた。
そう、ChatGPTだ。これを使い始めてから、将来という曖昧なものが、幾分クッキリと見えてきて、行動のし易さがかなり変わっている。もはや言い訳は通用しない。
ChatGPTのサポートを受けつつ、僕はむしろその実働隊として働く覚悟だ。でなければ、自分が立てた水準に届かせることなど、未来永劫叶いっこない。
実際、目標としている生徒数に達するには、月に2〜3人のペースで生徒を増やさなければならないが、これは中小の塾においては、かなりのハイペースなのだ。
このペースを維持するためには、単なる運任せではなく、仮説を立て、行動し、検証するサイクルを意識的に続ける必要がある。ここは職人技に近いのだ。
そういえば昨晩、ふと自分が校舎を潰してしまうのではないかという恐怖に襲われ、しばらく布団の中で煩悶する時間があった。死よりも強い恐怖だったと感じる。
堀江貴文氏が著書で何度も書いている、死の恐怖に関するそれと、かなり近いように思う。それは以下の通りだ。
はじめて死を意識したのは忘れもしない、小学1年生の秋である。
学校からの帰り道、一緒に下校していた友達と別れ、自宅へと続く一本道を歩いていたときのことだった。深まる秋に、すでに空は赤く染まっている。足元には枯れ葉が舞い上がり、冷たい風の吹き抜ける夕方だった。これといって考えごとをしていたわけではない。なのに突然、気がついた。
「僕は、死ぬんだ」
人はみな、いつか死んでしまう。お父さんもお母さんも、いつか死ぬ。そして僕も、死んでしまうんだ。この世から消えてなくなってしまうんだ……!!
あたりの景色が暗転したような、猛烈な恐怖に襲われた。
・・・この【ゼロ】という本にもある通り、この恐怖を打ち消すためには、がむしゃらに頑張るのが一番だと僕も考えている。
ただしそれは、根性論全振りで、無計画にエネルギーを注ぐという意味ではない。例えば全力でトイレ掃除をしても、生徒数は全然伸びないだろう。
以前読んだ【渋谷で働く社長の告白】という本には、がむしゃらに頑張るだけではなく、赤字覚悟で投資を行い、結果を待つ忍耐も重要だと書かれていた。
僕はそれに同意しつつも、自分はどうも根性論に頼りがちなところがあるとも自覚している。だから今こそ冷静に考えて、計画的に頑張ることが求められているのだろう。
もちろん、まだ諦めるつもりはない。このまま市場から撤退なんてクソくらえだ。責任を持ってやり抜き、その後で自分の次のステップについて、しっかりと考えたい。
では、今日はこの辺で。