今日は少し珍しい話だが、先ほど結構腹立つ出来事があり、ずっと頭がカッカしているため、それを少しでも冷静にするべく、一旦言葉にして整理しようという記事だ。
ではそもそも一体何があったのかというと、仕事のスケジュールの変更を僕に一切共有せず、そのまま勝手に実施してしまった人がいたのだ。
それ自体は「裁量」という言葉で片付けて良さそうだが、問題はそれにより、校舎を開ける人がいなくなって、結果的に生徒を追い出す構図になってしまったことなのだ。
今日は一連の流れを整理しつつ、少しでも建設的な教えを取り出し、今後に活かせればということを願いながら、ひたすら筆を進める。そんな記事である。
信用・信頼に無頓着だと・・・
開校している人がいない限り、どうしても校舎は閉めざるを得ない。それゆえ、この一連の出来事で、自習に来ていた生徒を追い出すことになったと、さっき書いた。
このことに腹が立ったのは、勝手に予定を変更して報告しなかったこともさることながら、それによってこちらが何を失うのかに無頓着だったからだ。
例えば、このとき自習を中断された生徒は何を思うだろうか。思っていたより早く閉められるなら、最初から図書館に行けばよかったとか、そう思うのではないか。
平たく言えば、確実に不信感を抱かれただろうと、僕は強く反省している。彼らはきっと、大なり小なり、「なんなん?」という不満を抱えたはずだ。
僕が卑屈すぎる思考をしていることは否定しないが、だからと言ってこちらの不義理を楽観視するのはとても問題ある考え方だと僕は捉えている。
「校舎が開いていること」「納得できるまで自習ができること」というのは、塾として”当たり前”の状況だ。それゆえ、それが毀損された際の信頼の失墜は、とても重い。
そういうリスクがあることに対し、ここまで無頓着なのかと思うと、つい感情的になってしまった。自分の中の怒りの琴線がはっきり分かったことが、唯一の収穫だろう。
八つ当たりこそしなかったが、正直電話して上司だろうが関係なく怒鳴りつけたいくらい、僕は頭に来ていた。正しいのはどっちだろうか。これは他者に委ねるしかない。
頭を下げたのも僕で、その場を収めたのも僕だ。そういうやり取りを見ていないとはいえ、謝罪も何一つなく済まされたとは付記しておく。
・・・自分はこうも感情的になれるのかと、ゲームに勝てない子供の頃以来の怒りに対し、もう色々通り越して笑ってしまうほどだった。
これについては、どう解釈しても前向きなアイデアには切り替えにくい。例えばもうちょっと僕が管理面をシステム化しておくべきだったとか、色々と欠点は見えたのだが。
或いは来ないことによって校舎の開校に支障が出るという事情も、きちんと伝えておくべきだったろう。そこは素直に認めるべき、僕自身の反省点だ。
もちろん、これをその他社員の前であげつらう気も無いし、こんな低レベルなことをわざわざ研修の題材に加えようという進言もしたくない。
もっと募集活動や企業戦略に集中して時間を使いたいと思っているので、どうしたものかとただただ、そこに関しては悩んでいる。
・・・過去に読んだ、サイコパス的な思考を持つ人が書いたブログ記事が思い出される。結局、他人に対する苛立ちを和らげるためには、期待値を下げるしかないのだ、と。
結局、しない人はしないし、できない人はできない。逆もまたそう。だったらせめて僕自身は、信頼や信用という目に見えない感情に対して、敏感であり続けるべきだ思う。
・・・ここまでグチグチと話しているうちに、気持ち自体はだいぶ落ち着いてきた。つまり、本来の目的は達成だ。だから、この辺で終わりにしようと思う。
もう無益なストレスは溜めたくない。もうここで一区切りにしよう。それでは、今日はこの辺で。