昨日、僕がフォローしているYouTuberの人たちが、ある大規模な大会に挑戦した。数ヶ月もその準備に専心し、全てを投げ打ってそこに集中する姿をずっと観てきた。
そこに投じられた努力も、苦労も、我慢も、失ったものも、動画で記録されたものは氷山の一角に過ぎないだろう。それが判るだけに、僕はその日、すごくそわそわした。
しかし勝負の場とは残酷だ。いつだって勝者と敗者に分かれてしまう。どれだけ努力をしても、我慢しても、結果がそれを反映するとは限らない。
勝者が笑顔で報われる裏では、何百もの報われなかった努力が存在する。それに対し、悔しさと満足が入り混じった感情が爆発し、涙する人たちがいる。
それに感化されて涙を流したり、己の内に炎を宿したり。一方でそれを冷笑する輩もいたり、がっかりする者もいたり。昨日のSNSは、感情の坩堝だったと思う。
その上で気付いたことが2つある。1つは、僕自身もどこか、結果が出なかったことに落胆していたということ。もう1つは、そんな自分が猛烈に恥ずかしかったということ。
今日はタイトル通り、応援を嗤う側には、死んでもなりたくないと思った話を、記事にまとめることで、忘れないようにしたいと思う。
なぜ応援を嗤えるのか。
中学の頃、僕は甲子園の時期になると、その特番に魅入っていた。各高校のエース級選手の紹介と、意気込みと、それまでのドラマ、それらが見たかったからだ。
彼らがどんなに辛く苦しい練習を重ね、青春の全てを乗せて、勝ち進んできたか。それを当時野球部だった僕は自分事として理解できたので、より入れ込めたのだ。
―そんな僕だが、高校の頃から、甲子園に関してはその興味のほぼ全てを失っている。理由は至極簡単で、僕自身が野球を止めたためだ。
どんな苦労をしたか、どれくらい監督に怒鳴られたか、そういったものを同じ気持ちで味わうことができなくなるにつれ、僕は本当に甲子園を見なくなっていったのだ。
恐ろしいことに、あまりにも熱量や意識が高いコメントを聞いたときに、「たかが部活じゃねーか」と思いそうになることもある。(その度に慄然とするのだが)
自分から遠い世界の出来事であればあるほど、そしてそれが自分には手の届かない才能や能力の舞台であればあるほど、どうしても冷笑的になる自分を僕は感じてしまう。
努力を諦めた自分。才能がないことを自覚した自分。そんな挫折を抱えながらも自分を肯定しようと思ったら、輝かしい人を否定するのが一番楽だと、少なからず認める。
しかし、方法はもう1つある。それは、自分も努力する側に立ってしまうことだ。そこへ才能もあれば言うことは無いが、やはり頑張ることは尊いと思わされる。
技術としてはぶっちゃけ拙い体育祭の踊りや組体操に、なぜ人は熱狂するのか。それは、それが努力の結晶だと皆が分かっているからだ。
「たかが学校のイベントにww」というヤツが居たら、集団から追放されるか、袋叩きに遭うかのどちらかだろう。そして僕は申し訳ないが、それで正しいと思っている。
応援を嗤うとき、自分は応援される要素を何一つ持っていないことを、その人はきっと深層心理で自覚している。それはすなわち、僕も同じだ。
「俺は長い時間をかけて一つのものに打ち込み、険しい難関に挑んだんだ」と胸を張って言えるのは、2018年第3回英検1級二次試験が最後かもしれない。
足掛け6年、僕は自分で自分を追い込み、頑張る姿を発信するということを怠っている。老害は40代から始まると言うが、このままだともっと早くそれは訪れそうだ。
如何に自分を追い込めるか。できれば、他の人が応援してくれる何かで。或いは、如何に純粋に、頑張る人を応援できるか。できれば、嫉妬の感情をくっつけずに。
僕の人間的な課題は山積だが、片付けようとしなければ終わらないことも分かっているので、めげずに精進する所存である。
では今日はこの辺で。