前回、心に少しダメージを受けた出来事について書いたが、その続きのような内容を今日は書きたいと思う。
この件はまだ解決しておらず、むしろどう後腐れなく幕引きをするかという、いわば次のステージに進んでしまった。
具体的には、その子の友達や兄弟が影響されて、一緒にこの塾を去らないよう、周囲の動向を注視し、必要なら根回しをしなければならない状況になっている。
正直なところ、すべての物事を事務的に、ドライに、どこか徹底的な第三者視点で見ることができたら、人生はどれだけ楽だろうと、心底悲痛な気持ちが湧いている。
情けない話だが、今もまだメンタルがグラグラと不安定で、言ってしまえば誰も何も信じられない状態に近い。
例えば、今通っている生徒たちが、来月もここを選んで、この授業を受けている保証など、どこにもないのだ。忘れがちだが当たり前の現実が、急に眼前に突き付けられる。
仏教で言う「物事に絶対性はない」という教えが、こんなに身近なところまで通用するとは思っていなかった。改めてこの叡智の結晶には、ただただ驚くしかない。
僕自身、仏教哲学をかじることで、この考えをある程度は理解しているつもりだったが、いざ現実にそれが起きると、浅薄な理解は簡単に吹き飛んでしまった。
―ただし、やられっぱなしというわけではない。最近、自分自身を観察する習慣がついてきたおかげで、こうしたダメージの処し方が、少しずつわかってきたのだ。
前置きが長くなったが、今日はここから、その話をまとめておきたい。
これらをじっとこらえてゆくのが、男の修行である。
結論として、こういったダメージに関しては、痛みが消えるまでは耐えるしかない。例えば、打撲して、痛みがある時に、それをすぐに消すことはできないのと同じだ。
痛みは時間の経過で治ると理解していれば、無駄に痛みを取り除こうとするのではなく、痛みから意識をそらし、他の生産的なことに集中する方が重要だと思えるだろう。
したがって、嫌なことがあったときに、それから目をそらして他のことに取り組むのは、無責任な行動ではなく、むしろ防衛本能かつ、ある種の受け身ともいえる。
それによって、その痛みによるダメージを減らし、思考を健全な水準・方向に戻すのが早くなる。だから、気持ちを紛らわせようとすることは、正当な行動だと僕は思う。
では、具体的にどうするか。僕自身、メンタルの悪化から気をそらす方法として、以前は仕事に没頭することが最善だと思っていたが、最近はそれがそもそも変わってきた。
今は、自分が経験しているのと同じ感情や状況と思える描写がある、好きな小説や文章を読み返すことで、心が幾分落ち着くことがわかってきた。
例えば、今回のようにすごく突然信じていた人が去っていく状況や、自分が信頼していたものがなくなる感覚は、【渋谷で働く社長の告白】という本に似た場面がある。
また、大きな衝撃を受けて頭が真っ白になる感覚については、「こころ」という本で、先生がKからお嬢さんへの恋心を告白されたときの描写がしっくりくる。
彼の重々しい口から、彼の御嬢さんに対する切ない恋を打ち明けられた時の私を想像して見て下さい。私は彼の魔法棒のために一度に化石されたようなものです。口をもぐもぐさせる働(はたらき)さえ、私にはなくなってしまったのです。
このように、自分の心とは確実な距離がある状態で、自分の感情に似たものを別の観点から眺めてみることは、心を中立に保つうえで非常に効果的だと感じている。
もちろん、完全に気持ちが戻るまでには、自分が思っている、期待している以上に時間がかかるが、ただほったらかしにするよりも、こうする方が早く気持ちが整う。
心に傷を負ったときに、それを癒す方法は、どこまでもオーダーメイドだ。打撲に対する湿布や火傷に対するアロエのように、自分なりの薬を見つけることが大切。
僕の場合、作品を通じ、自分が抱えている痛みと同じような状況にいる人がそれをどう表現・克服・感傷しているかを確認することが、心の癒しになるようだ。
現状、これが一番しっくりくる解決策である。では、今日はこの辺で。