先日、33歳になった。これは、中学の頃、僕の担任だった先生の年齢を超えている。とはいえ、肉体的な老いは正直感じない。だが、外見の変化はどうしても感じつつある。
同い年の友人の顔を見ると、「老けたねぇ」と思う。それはすなわち、僕もそう思われているということに他ならない。外面は確かに変わる。では内面は、どうか。
正直、10代の頃からネジくれていた価値観・思考は、年月を経ていく内にそのままギプスみたいに固まっていき、今では何か一つの「できあがり」に近づきつつあると思う。
特に決定的に違うのは、良くも悪くも【鈍感力】がどんどん強まっていることだ。そしてその力が強まったことによって、あの頃より幾分平和な日々を、僕は送れている。
その平穏に至った理由は何なのか。それはぶっちゃけ、自己観察の賜物ではないかと僕は考えている。これまで以上に内省を深めた結果、何故か鈍感になっていったのだ。
今日は、【鈍感力】に関する、あまりにも個人的な観察記を、ここに書いておく所存である。ではいこう。
僕がアンチコメントを苦手とする理由。
得意な人はいないと思うが、いわゆるアンチコメントが苦手だ。他者を傷つけて貶めること(と同時に自分が優位だと錯覚すること)が狙いの言葉は、色々と毒だ。
だからYouTubeのホームを見ていても、悪口を目的とした動画がリコメンドされたら、そのチャンネルごと僕はブロックするし、ネットニュースも基本ミュートだ。
あと、僕はちいかわが好きなのだが、その最新情報に疎いのは、Xにある掃き溜めのコメントを読みたくないので、単行本にまとまるのを待っているからである。
―そんな風に「嫌」という感想を反射的に持ってしまうのだが、冷静に考えればただの電子データなので、ぶっちゃけ無害ということも頭では分かっている。
ではなぜ、それでもそういうコメントに、僕は”傷ついてしまうのか”。―これが、僕自身が長い間、勝手に前提に置いていた事柄である。だが多分、これは違う。
僕は別に、傷ついていない。そうではなく、別の負の感情を想起させるがため、そういったコメントを忌避しているのではないか。
プルチックの感情の輪を見ていて、ふとそう思った。特に、悲しみのような感情は、僕はそのコメントに対し、特に抱かない。なんなら、怒りもだ。
何に近いか、じっくりと考えた。そして分かったのは、例えば耳元で蚊の羽音が聞こえたときや、排水溝に吐かれた誰かのゲロを見たときと、同じ気持ちだということだ。
それを踏まえて、改めて感情の輪を眺めてみる。すると気付いた。【嫌悪】こそが、ぴったりくる感情なのではないかと。
プルチックの感情の輪|人間の感情は色で分類すると関連性がわかる? - Web活用術。
ちなみに【嫌悪】は、攻撃をせずとも自分にとって害となる存在から反射的に遠ざかるために用いられる感情だという。そう考えれば、結構納得だ。
ついでに言うと、僕がそういうコメントに一番強く持ってしまう感想は、「とんでもなくイタい」というものだ。痛々しさがひしひしと伝わり、とても心が痛い。
将棋のプロに対し、「でも俺の方が野球うまいもんね!!」とかなんとか言って「勝った感」を”本気で”訴えるヤツのような可愛げゼロの痛さを、僕は感じている。
そんな痛々しいものは、本当に見ていて辛い。だから、嫌悪という感情を突発的に発動することで、距離を一瞬で取る。そう思えば、僕の反応の”正しさ”が見えてくる。
怒りや悲しみといった感想を持つ以前の話だった。そのことに気付いた今、これからももっと鋭敏に、こういうコメントを跳ね除けようと誓っている。
クマバチに学ぶ「翻訳術」。
暖かくなってくると、僕の散歩ルートに大量のクマバチが出現するようになる。重低音の羽音は迫力満点で、耳元で聞こえると恐怖しか感じない。
しかし実際のところ、重低音で飛んでいるあいつらはオスであり、つまり人間を刺して攻撃する針を持っていないそうなのだ。
そして性格は温和というか臆病というか、そもそも興味が無いというか、人間が近づいても特に反応はしないのだという。(ちょっかいをかけたら別)
実際、勇気を出してホバリングするクマバチにワザと顔を近づけてみたことがあるが、数秒その場に居たらすぐにちょっと遠くへ飛んで、また浮遊という反応だった。
以来、僕の中では、あの羽音に対する恐怖が失われた。違うメッセージーお前には興味ないよーに翻訳が完了したという感じだ。
ところで、アンチコメントをする人の深層心理を学ぶと、彼ら(彼女ら)のやけに刺々しいコメントの裏には、すごく切ない意識が隠れていることが分かる。
コンプレックスを持っていたり
心の傷を負っていると
傾向として下記の2パターンに
分かれてきます。
1、自分はダメだ。
自分がいけないんだと
自分を責めてしまうケース
2、愚痴、不満、文句を言って
人を蹴落とそうとすることで
自分の心のバランスを取るケース
だいたいこの2つに分かれます。
つまりあのコメントを裏返すと、「自分に自信が無い、自分が嫌い、そしてそれを自覚している」というメタが浮き彫りになる・・という話になる。
当然本人は否定するだろう。ゆえに一度反応してしまえば蜂の巣を突く大騒ぎであり、どこまでもしつこく、その人が満足するまで、一方的な攻撃は続く。
そして仮初の満足をした後は、また次の叩ける存在を探し、必死で攻撃して自分のバランスを保つ。嫉妬と非難で、その人の人生が塗り固められていく。
こういう背景を聞くと、あの刺々しいコメントが全て単一のメッセージに翻訳される。「俺はすごいんだー!俺は、すごいん、だー!」という感じの、崩壊寸前の叫び。
ストリートファイターVの「セス」というキャラのストーリーに、ものすごくしっくりくるセリフがある。ただしうろ覚えなので、雰囲気だけご紹介。
行こう、彼の敵は、私たちじゃない。
やたら攻撃的なコメントに触れる度、僕はこう翻訳できる優しさを持ちたいと思う。クマバチの方がずっとマシだよなとは思いながら、だけど。
サイコパスに学ぶ「自問術」。
↑の本を読んだ後、どこで知ったかは忘れたが、興味深い情報がある。サイコパスは「気持ち・感情の切り替え自体が異常に早い」というものだ。
つまり、刹那的とはいえ、例えば面倒なことを言われたら「イラっと」するし、屈辱的な言動をされたら「叩きのめしたい」とも思うそうだ。
そういった不快感の持続時間は、一般的には大体25分前後だという話をどこかで読んだ。それがサイコパスの場合、数秒という話なのだろう。すごい思考だ。
このラインは絶対音感と同じで天性の域なのだが、例えば相対音感を徹底的に高めることでそこに近づいていくのと同じで、訓練自体は存在するとされる。
長期的なトレーニングで言えば、「瞑想」がそうだ。自分の思考・感情が発生しては流れていく様子を、ただ観察するということ。(これがとても難しいのだが)
短期的に効くのは、「自問自答」だ。例えば、先の本に載っていたものの内、僕にしっくり来たものを抜粋すると、こんな感じ。
1 この感情が無かったら、今は何をする?
2 実際にそう言われたとして、お前はどうすればいい?
3 相手の意図はなんだ?
これにプラスして最近気に入っているのは、ひろゆき氏の方法だ。それはこんな感じ。
ひろゆき氏:まず、やるべきことは、「事実」だけを見ることです。「肩にあたって痛かった」「まずい飯で800円損した」。それだけを考えます。頭の中で、「事実はなんだっけ?」と振り返ってみて、紙に書いたりしてもいいでしょう。
――ひろゆきさんの場合は、それを無意識にやっているんですかね?
ひろゆき氏:そうですね。悩み相談をする人は、人に話すことによって、それをやるわけです。自分1人でできない人が多いんですよね。人から「それって、○○なだけだよね?」と言われて、ハッと気づくんです。
ただ、世の中には「愚痴を言いたいだけ」「聞いてもらいたいだけ」という人も多くいます。人とぶつかった話をしたときに、「そいつの顔が気に入らなくてさ~」「隣の彼女の態度も許せなくてさ~」ということを話したくてしょうがないんです。
その場合、その人は「対処法」を求めているわけではありません。「わかる、わかる」「そうだよね」「ムカつくよね」と、「共感」を求めているだけです。
ちなみに、ここがよく男女の話が噛み合わないポイントだったりします。男女に限らず、「対処法を求める人」と「共感を求める人」は、そもそも会話が成り立たないので、相手がどっちのパターンかを見極めるのが大事です。
ひろゆきが教える「嫌なことを忘れる画期的な方法・ベスト1」【書籍オンライン編集部セレクション】 | 1%の努力 | ダイヤモンド・オンライン
自問自答とは、メタに対して強制的に別の観点を打ち込む、とてもアグレッシブな方法に他ならない。
短期的にはこれでカードを切りながら対応し、長期的には瞑想などを通じて地力を鍛えていくというのが、豆腐メンタルを持って生まれた僕の戦略なのだと感じている。
―ということで今日はこの辺で。