精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「小さな成功体験」を馬鹿にするやつの末路は悲惨。

今日は、「小さな成功体験」は意識的に日常に取り入れた方がいいよね、という提案について書いてみる。

 

「自分に自信をつける方法」なんてのは、インスタライブ等でも鉄板の質問の1つだが、誰が答えようと、その回答はほとんど同じだと思っている。

 

 

「小さな成功体験を積み重ねるしかない」というのが、どうやら真理のようだ。華奢なアイドルも、強面な格闘家も、大体似たような回答を残している。

 

そして僕もそう思う自分を変えたり支えたりしてくれるのはいつだって、大きな成功ではなく、小さな成功体験の積み重ねだからだ。今日はそんなことを以下、書く。

 

 

 

大成功は意外と脆い。

 

例えば、難関大学に合格すれば、その人に大きな自信がつくことは明白だ。だがそれは一発逆転の要素が強く、人生をそこに全て賭けるのは危険だと、僕は感じている。

 

そういった一発逆転で得た自信は、簡単に砕かれるリスクがあるためだ。実際、上には上がいるのは当たり前の世の中だが、それの直視は想像の何倍も辛いものだ。

 

地方国公立に受かった人は、旧帝大から見ればまだまだだと思われ、旧帝大でも東大から見れば同じ感想を持たれる。

 

東大ですらハーバードから見ればまだまだだし、ハーバードの卒業生であってもアインシュタインの頭脳と比べればまだまだだと感じるだろう。

 

こうしたブランドによる自信は、広い世界の自覚や、自分より秀でた才能という確実に存在するものの登場によって砕かれる可能性が高いと、どうしても僕は思う。

 

一方、小さな成功体験は、ピラミッドのブロックを下から積み上げるようなものだ。そのような形状であれば、多少の振動ではまず倒れない。変化や揺さぶりに強いのだ。

 

だからこそ、ピラミッドは何千年も残っている。これはあくまでメタファーだが、このイメージはしっくりくるだろうと僕は感じる。

 

では、小さな成功体験とは何なのか? これは短期かつ少し頑張れば達成できる目標だと僕は考えている。

 

大学受験の例で言えば、合格は立派なゴールだが、例えば模試の成績をこの時期にここまで取ろうという中間目標も、成功体験になり得る。

 

それがクリアできれば、また一つ自信がつくからだ。ドラゴンクエストで言えば、レベルが上がったような感覚、新たな街に到着した感覚を得られるだろう。

 

上手いもので、学校には定期試験や模試、運動会の練習といった場が設計されていて、「小さな成功体験」を経験できる場がシステムとして用意されている

 

しかし、大人になり社会に出ると、意識的に小さな目標を設定し、何かしらの努力を自分の意志で続けなければ、こうした成功体験は積めなくなる

 

それが拗れていくと、むしろ挑戦を避け、挑戦する人を蔑視するようになりがちだ。結果、気づけば挑戦する人を鼻で笑うだけの存在になり果てる未来も見える。

 

おそらく周りからは「老害」や「ネガティブ野郎」とレッテルを貼られるようになるだろう。この末路のないループ自体、とてつもなく悲惨だと僕は強く感じている。

 

では、大人になってからどうやって、意識的に小さな成功体験を作るのか? 僕が今のところわかっているのは、まず手を出してみないと始まらないということだ。

 

例えば僕は、仕事以外にも筋トレが好きで、トレーニングの重さを更新することやダイエットに取り組むことなどを日々取り入れている。

 

仕事で少し嫌なことがあっても、体重が軽くなっていたり、筋トレで重いダンベルが使えるようになったりすれば、それが心の支えになる。

 

逆に、筋トレがうまくいかなくても仕事がうまくいっていれば、やはりこちらはこちらで、大きな支えになる。このように、挑戦によって別の挑戦を支え合う感覚だ。

 

勿論、資格の勉強や、なんならプラモデル作りも良いと思う。とにかく、小さな成功体験を自分なりに試行錯誤して、今のうちから積み上げていくのが良いだろう。

 

特に、この変化の激しい世の中では、今の自分に足し算するような考え方が身についていない人は、確実にハードモードになっていく

 

僕もまだ、今のままでは人生ごと泥船という可能性がある手前、間違っても慢心することなどできないのだが。

 

では、今日はこの辺で。

 

 

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