今日は自分が独立をしたいという想いについて、また別の腹落ち感ある理由が頭に浮かんだので、忘れないうちにここに残しておこうと思う。
何度目という話だが、やはり僕は独立をしたいと考えている。ただし、将来的な独立を目指す話を打ち明けたのは2年前のことだが、進展したかは眉唾ではある。
振り返ると、今現在も自分の力量不足が見えすぎていて、勝率がほぼ無いというリスクだけが思いっきり出ていると思う。要は僕の愚痴に過ぎない、と。
しかし逆に、そういった環境に身を置くことで、自分の中に封印されていた何かが解き放たれるという期待も無きにしも非ずだろう。これもまた一つのリスクなのだが。
・・・現状としては、その辺の思考がごちゃごちゃになり、絡まり、解こうと思えばどんどん結び目がこんがらがり、つまり特に進展がない状態である。
ではすなわち、僕は段々と火がゆっくり消えるように、独り立ちしたいというこの思いが弱まっているのだろうか。それに関しては、むしろ逆だと感じている。
今日はその辺りをベースに、記事をまとめる所存である。
一人でやってみたい。
そもそも論、僕自身は、決裁権を持ち、その場所を取り仕切る人間は、1人で十分だと考えている。共同責任者なんてのは最悪で、自分のケツは自分で拭きたいのだ。
変に責任を分担すると、エラーが起きた時に、結局肩書がついている僕だけが何故か責任を追う形になることがままある。それは不毛ゆえに、なるべく避けたい。
例えば塾の例だと、あの人は宿題が少ないけどどうなっているんだというお怒りは、その人に対してではなく、僕を窓口としてぶつけられる。そんなものなのだ。
それを思えば、僕が主体的に動く方が、リスクも少ないし、責任の所在も明確だと考えている。そして現状の規模だと、それで十分だし、そうでないと人余りでもある。
雇用形態としても、常駐する正社員は僕1人で良く、他は全員アルバイトで十分だという実感も伴う。それは勿論、労働力の総計という意味で、だが。
脱社畜ブログでかつて紹介されていた、「アルバイトに託す命運」のような無責任なことはせず、僕が【責任】を持って運営したいと、やはり感じる。
となれば、僕が社長になってしまうのが究極的な目標だ。それによって、協力を強制されるような環境に身を置く必要がなくなるためだ。
もう目を背けられない特性なのだが、僕にはどうしても協調性がない。他者との協力が苦手で、コラボレーションは必要な時にだけ行うのが最適だと感じている。
例えば堀江貴文さんや藤田晋さんの本が好きで、彼らの働き方に憧れる部分もあるのだが、僕は前者の、独立して活動するスタイルの方に魅力を感じている。
或いは、佐渡島庸平氏のような、個が際立った編集者の集合体のような形で会社を運営する仕組みにも憧れを抱いている。
このような形態の方が、自分にとっては心地良いし、適しているのではないか。僕のムセイオンを作りたいのではなかったのか。
2年前にその決意を示し、何度も取り出してそれを言語化するプロセスを経た今も、その思いは変わっていない。磨かれていくにつれ、より正確な姿を見せている。
そもそも僕は、他者と協力という耳触りの言いことに包んだ状態で、つまり歯車以上の個性を消して、その一つに徹することに、強い抵抗がある。
過去にそのような状況でトラウマになる経験をしたことがあり、今でもそれを思い出すと、感情的に強いストレスを感じてしまうのだ。
その出来事は今の会社の話ではないのだが、そのような状況が嫌で仕方がないのは今もきちんと持ち越されている。原体験の強さをまざまざと感じる。
無理に自分を組織に合わせようとすると、ただのストレスでしかない。それが僕の現体験であり、これからも大切にしていきたい部分だ。
とはいえ、これ自体は猛烈なワガママである。大きい方が小さい方に合わせろなんて暴論は言いたくない。僕はキッチリ筋を通したい。となれば、・・・という話だ。
今日は特にまとまっていないのだが、この辺で終わりにしておこうと思う。