突然なんだという話だが、ここ最近急に、「感情を切り離して考える」ということに対して、「こういうことか」と納得感を得られるようになってきている。
そもそも「感情を切り離して考える」とは何かというと、仏教やメンタリストDaiGoさんの著書でもよく出てくる、無駄な感情に振り回されず、健やかに生きる術の一つだ。
いわば、感情に意識をジャックされることなく、理性の力でそれをコントロールしたり俯瞰したりする、といった意味合いの話だ。
これは冷静な状況判断や経営判断を行うために必須の、一種の技術のようなもので、僕もその技術を身につけたいと常々思ってきた節がある。
しかし、例えば他者のイラっとするような言動に対して即座に感情を切り離すことには、ずっと手応えがなかった。僕は簡単に感情に己を乗っ取られ続けてきたのだ。
ところが最近、急に「切り離す」ということがどういう意味か、先述の通り腑に落ちてきたという強い感覚がある。
これはどういうことなのか。そしてそれはなぜ果たされたのか。限界はあるが、この記事でなるべく言語化を済ませておきたいと思う。
切り離した世界。
これによって、僕にとって眼前の世界はどう変化したか。具体的には、ムカつく出来事や発言、あるいは過去の嫌な記憶が蘇ったとき、ラベリングの仕方が変わっている。
自分の中に生じる感情を意識的に察知し、それは何に該当するのか、適切な熟語で表すなら何なのか、それに意識がすぐ切り替わるようになったのだ。
例えば、過去の記憶に「イヤ」な何かを感じた際、それを「嫌悪感」と認識することが感覚としては近い。基本感情のどれかに、まずは落とし込むのだ。
そしてプルチックの感情の輪を思い出しながら、その感情が僕に何を伝えようとしているのか、自分に問いかけができるようにもなっている。
更には、例えば焦りといった感情があると気付いたとして、果たしてそれは今対処すべきものなのかどうか、冷静に判断することも、段々できるようになってきている。
いわば、感情を司る自分と、それを認識する自分が、脳内に同居している。形而下の自分を、形而上の自分が観察している。そんな構図で世の中が見え始めたのだ。
もちろんこれは精神分裂症のような病的なものではなく、感情が確かに存在することを認識しつつも、それに振り回されず冷静でいる自分も持てているということだ。
その結果、どこか個人的で感情的な出来事に対しても、他者の相談を受けたときみたいに、どこか他人事で、よく言えば客観的な、そんな視点で対応できるようになった。
これは、心を整理し、感情を切り離して考える技術の実行といって良いだろう。では、気になることがある。一体なぜ急に、これらのことができるようになったのか。
実は心当たりが一つある。続けてはついでに、それについて文字数を割いていこう。
なぜ急にその端緒を得たか?
なぜ急に、「切り離し」を習得できそうな手応えを得られたか。その端緒として、一つ大きな心当たりがある。
それは、三島由紀夫の作品を読み返したことだ。具体的には『金閣寺』と『仮面の告白』を再読したのだが、語彙力、描写の緊密さ、硬派な文体、全てが圧倒的だった。
それは同時に、自分の感情を言葉にするための材料がふんだんにそこに盛り込まれていると言ってもいい。「やばい」で片付けず、もっと具体的に感情を言語化できる。
これにより、自分の感情を客観的に見つめ、表現する能力がグッと向上したと感じている。感情や情景を表す語彙に特化した辞典を、例文付きで読んだようなものだ。
小説を読むことで、感情を表現する力を養うことができる。この話はかつて聞いたことがあったし、僕もそうだと思っていたのだが、特に強く感じたのはミシマ文学だった。
もちろん自分の好き嫌いに応じて選ぶというので間違いはないけど、小説や物語を1つくらいは読破するのが、客観性を養う起点になるかもしれない。改めてそう思った。
では今日はこの辺で。