今日は、自分の中でまだ理解が追いついていない部分を言葉にしつつ、話しながら整理してみようという、そんな内容の記事である。
昔から自覚しているのだが、僕はアンチコメント、もといネット上の罵詈雑言を見ると、すごく嫌な気持ちになる。その度合いは、他の人と比べても強いように思う。
アンチのような存在を「ただの虫みたいなものだから気にならない」とまで豪語する人もいるが、僕はどうしてもそういうコメントを見ると、強い嫌悪感を覚える。
大体中学3年の頃から、このことには気付いていた。しかしながら、これは悲しみや怒りともどこか異なる感情であるため、その正体はなかなかにつかみどころが無かった。
ただ、「プルチックの感情の輪」という図を知ったことで、この疑問は氷解した。要は不快感・嫌悪感は、一つの独立した感情であるそうなのだ。
【プルチックの感情の輪】二次感情を構成する、一次感情の組み合わせが興味深い。|ヨッシー(ヨシカワケイコ)@ロジカル片付け屋
言葉にしにくい「なんか嫌だ」という感覚が、悲しみとも怒りとも恐怖とも異なるのは、そもそもそれらとはまた別の分類の気持ちだから。すごく簡単な話である。
例えば、蜘蛛や蛇が苦手な人がそれらを目にしたときに抱く感情というよりも、排水溝に撒かれたゲロを見たときの感情に近いと僕は納得している。
・・・では、そろそろ本題に入る。
実はアンチコメントを”目にしたとき”に嫌悪感を覚えるとさっき書いたが、僕は似たようなことを”言われた”際は、正直あまり何も思わないのだ。
そうではなく、僕が知っている誰かが面倒な人に絡まれてメンタルを消耗させている光景を見ると、強い嫌悪感を覚えるという方が、構図としてはより正確なのだ。
このちぐはぐさは、一体何なのか。いい加減正体が知りたいと思っているので、何かしらのヒントに辿り着けると願いながら、以下話を続けてみる。
自分が悪口を言われるより、言われている人を見る方が何万倍も不快という。
強がりでもなんでもないのだが、僕自身は人から悪口を言われることについて、実は驚くほど鈍感であると思っている。
例えば、何故か数年くらい経ってからふと、「あれは俺に暴言を吐いていたよな」「皆から総スカンされていた時期があったよな」と気付くことがしばしばあるのだ。
多分中学3年生くらいまでは本気でアホだったのもあり、高尚な悪口や皮肉が理解できなかっただけなんだと思う。色々勉強した今、時間差でそれに気付いている感じだ。
大人になった今も、割と似たような状況にある。子供たちに「バカ」や「アホ」と言われても何も感じないし、もしそう思っていたら、この仕事は絶対に続かない。
しかし、不思議なことに、他人がそういう言葉を言われている場面を見ると、途端に強い嫌悪感を抱いてしまう。この理由は、自分でも何なのかマジで分からない。
人が嫌な思いをしている姿を見ると、心の奥底から不愉快な気持ちになってしまうため、ドロドロした人間関係を描いたドラマや映画、漫画が心底嫌いだ。
たとえ名作であっても、不愉快になるという嫌な予測が上回る。故に最後に観たドラマは、何年も前の「魔女裁判」というものであり、シリーズ物は全く観ていない。
それくらい、どんなにハッピーエンドが待っていると分かっていても、生身の人間が苦しんでいる様子はただ不快なのだ。
改めてこの嫌悪感について考えてみると、それ自体が1つの独立した感情であることに、やはり驚かされる。もっと複合的なものだと思っていたためだ。
長い間、嫌悪感とは悲しみや怒りが混ざり合ったものだとずっと信じていた。しかし、実際には嫌悪感は基本的な感情の1つとされているし、そちらの方が納得感がある。
とはいえ、正体が判ったことはすなわち、どうしてそれがこうまで不快に感じるのか、という答えにはならない。実際、未だに自分でもよく分からないほどだ。
感情に振り回されている自分。その構図は、30代になってから急に強く意識するようになった。できるようになったという方が正確かもしれない。
しばらくはこの【嫌悪】という感情に集中して、仏教哲学や心理学などを通じ、客観的に見つめ直す必要があると感じている。でなければ無駄に心を消耗してしまう。
やはり僕は、自分が悪口を言われることよりも、他人がそのような状況に置かれている姿を見る方が何百倍も嫌だ。
そしてこの感覚についてきちんと考えるためには、まだまだ材料が足りないことに、今話しながら気づいた。これが唯一の収穫である。
ということで、今日はこの辺で終わりにする。