「平常心」という言葉がある。これ自体が大切な真理を示していることは、耳にタコができるほど聞かされた話なのだが、禅問答の如く、それが示すものは曖昧だ。
ただ、これが重要なものに違いはない。そして最近、僕の中でこれを学びたいというブームが再び来ていて、昨日もとある動画を視聴して、少し勉強したところである。
特に「サイコパス的な性格の良い部分を自分に取り入れる方法」について、折に触れて調べている。そしてそれを深めていく中で、ある不思議な帰結に辿り着いた。
今日はそんな、帰納法と言えば恰好が良いが、それとは全然関係なく、要は思い付きで喋っていたらなんかそれっぽいところに辿り着いたという、そんな話を書いてみる。
サイコパスの”能力”とは?
サイコパスは、あらゆる状況に対して非常に合理的な思考ができるのだが、この理由の1つは自分や他人の感情に対して鈍感だからだと言われている。
そのため、冷酷(だけど客観的に見れば正しいことが多い)に見える選択もガンガン取れる。それはひとえに、相手や自分の感情を気にしないからこそできる技なのだ。
例えるなら、カードゲームにおいて重要な札を犠牲にする作戦を取る際、「そのカードがかわいそう」と僕らが思わないといった、そんな感覚に近いのだろうか。
となれば、僕たちも場面や対象によっては、サイコパシーな側面を持っているということになる。これ自体は納得感のあることだと、本を読んでいても分かる。
そして僕自身の話だが、僕は感情的に不安定なことが多いタイプだと自覚している。色んな人間的課題があるが、その根幹は大体、この安定性のなさに起因している。
ただ、物凄くわかりやすい弱点だからこそ、平常心とやらを意識して学び、それをどうにかして後天的に獲得していくことが必要だと、心の底から感じている。
そしてちょっと調べればすぐに関連付けられるのだが、サイコパスの思考を学ぶと、また新たな側面から、やはり仏教哲学にも興味が湧いている。
特に座禅や瞑想を行う仏教僧の脳の働きは、サイコパスの合理性と近い部分があるらしい。冷酷・残忍とかそういう意味ではなく、「今」に集中をすぐ向けられるのだ。
彼らは自分の感情をメタですぐ認知でき、それに囚われる前に意識を他に向けることができるらしいのだ。例えば、怒っている自分を俯瞰できるイメージらしい。
しかも、修行を重ねた僧に至っては、痛みや苦しみに対しても、感情をパッと切り替えられるほどに意識をコントロールできるのだという。
これは子供の頃に何故かよく聞いた、「心頭滅却すれば火もまた涼し」といった考え方に通じる部分があるのではないかと思う。これ自体は誇張だが、構図は同じなのだ。
この力は、先天的に持たない以上、修行によって開発し、習得していくしかないものだ。そしてなるべく、日常生活の中で、その時間を取る必要があると感じている、
打ってつけの訓練こそが【瞑想】なのだが、これを続けること自体がなかなか難しい。ルーティンに対してさえも飽き性が発動してしまうことも、僕の弱点なのだ。
始める度に都度効果が感じられるだけに、なぜそこから続けられないのか自分でも不思議だが、10分~20分もじっとするだけというのは、確かになかなか地味である。
だから少し考えた。どこかで聞いた話だが、瞑想の効果は、1日の総計で一定以上の閾値を超えられれば、段々と得られるものだという。
となれば、短時間の瞑想を1日の中で数回行っても、別にいいのではないか?一発で20分とかが難しければ、分割して、空き時間に瞑想していればいい、と。
具体的には、3分間の瞑想を1日4~5回取り入れるという方法だ。そして1日25分が一つのラインだと聞いたことがあるため、不足した分を夜にやればいいという話になる。
この方法なら、まとまった時間が取れなくても、理論的には同じ効果を得られることになる。まとまった時間が難しければ、刻んで取り組めばいいという、それだけだ。
今までの自分が気付けていなかった思考の癖に気付けて、有意義な自問だったように思う。
という風に、今日は完全に自分のための話になってしまったが、何か参考になれば幸いだ。では今日はこの辺で。