最近、日常生活において、「瞑想」のような状態をなるべくつくることを心掛けている。これは無になるというより、意識の囚われを察知し、それを眺めるという感じだ。
自分が過去の嫌な記憶に「うげっ」となったときは、「あぁ、今ちょっと嫌な気持ちになったね、でも今すべきことはなんだっけ」と問いかけるのが一例として挙げられる。

水槽を泳ぐ魚を眺めるように。小説を読んで、登場人物の顔と場面を頭に浮かべるように。ゲームのイベントシーンを第三者として眺めるように。
そういう風に距離を取って、自分を観察し、意識的に中立なところへ引き戻してあげる。上手に言葉にできないが、「瞑想している感じ」を僕はこう捉えている。
もっと言えば、脳ががなり立てる独り言のいちいちに対し、相手をしないという感じ。自分に対して徹底的なスルースキルを発動する訓練ともいえる。
松波龍源氏は、著書で「俺の心、うるさいな」みたいなことを言っていたが、それくらい割引いて、かつ冷静に己の相手をしない感じが、僕の目標である。
そんな高次的なマインドを得られれば、日々もっと健やかで平穏だろうと、僕は勝手に考えている。
―ある意味そんな無敵な思考を得るために必要なものは何なのか。自分なりに色々考えていく内に、ふと閃いたキーワードがある。それが「揺らぎ」だ。
今日はだいぶ抽象的だが、それについて僕が考えていることを、記事にまとめておく次第である。ではいこう。
「硬直」ではなく「揺らぎ」こそが自然な状態ではないか。

佐渡島庸平氏のあるnoteを読んで以来、同意はしつつも、自分の中で具体的な体験が伴わずに、どこか宙ぶらりんになっていたものがある。
ざっくり言えば、「人工的なものは静止しており、自然のものは実は絶えず揺らいでいる」みたな話だ。実際は、逆の感想を持たれる方の方が多いのではないか。
僕もそうだったが、冷静に考えれば、納得はする。波や雲をじっと見ていると、絶えずそれは変化し、”揺らぎ”続けていることが観察できる。
また、同じような光景が連続する草むらを見ていても、ひとたび風が吹くと、そこにも”揺らぎ”が生まれ、草がさらさらと鳴る音と相まって、すごく心地が良い。
そして僕が心地よいと無意識下で思うものは大抵、”揺らぎ”を内包していることにも思い至る。シンギングボウルの音色然り、ロウソクの炎然り。
これらを統合すれば、固定は実は非自然的で、揺らぎこそある意味自然的なのではないか、という問いに至る。そしてこのことの納得感は、なるほど確かに強い。
とはいえ、このことと、感情のブレは、どう整合性を取り、肯定していけばいいのだろうか。例えばメンタルが揺らぐことは、どこか悪いものという風に語られがちだ。
それについて新たな着眼点を得られたのは、たまたま人から貰った以下の本がきっかけである。感情の揺らぎは悪ではなく、実はそれが固定されることが問題なのだそうだ。
負の感情になったとき、それに執着し、怒りや悲しみを増幅させ、自他に二次的・三次的な悪影響を及ぼし続けることが、本当の意味で問題なのだと。
心から揺らぎが消えたとき、メンタルが急速に悪化していく。本当にリラックスできているときは、心も体も”揺らぐ”という教えは、すごく含蓄あるものだと思わせられた。
そしてそれを読んだとき、「仏教哲学でも同じことを言っていたなぁ」と気が付いた。感情に執着せず、それを手放す。諸行無常を認め、心を中立に保つ。
これは無への執着というより、感情を手放すことで”揺らぎ”を意図的に起こすことではないかと思い直している。瞑想状態は、自分を固定することでは無いのではないか。
目を瞑り、自分の心と向き合おうとすると、様々な雑念が湧き上がり、なかなかに忙しい。傍から見ていると停止しているかもしれないが、内面は逆かもしれない。
今の自分の感情は何か。それを引き起こしているものは何か。それに意識を向ける必要性は何か。それが無ければ自分は何をするか。自問の術は色々とある。
それらを上手く用いて、意識的に自分の心を揺らがせるにはどうすればいいか。このことはしばらく集中的に考え続けようと思う。
では今日はこの辺で。