「人のせいにしない」という教えがある。松下幸之助氏をはじめ、著名な方の言葉においても、組織をまとめるためには「人のせいにしない」ことが重要だとされている。
僕はこれを、非常に厳しい精神修行を常に自分に課すようなものだなぁと、そんな風に捉えている。それくらい僕らは、「人のせい」という構図に甘えがちだ。
しかし、何かしらの問題が発生した際、他責に終始すれば成長はおろか、その局面を切り抜けることもできない。
極論、雨が降っても自分のせいと思うぐらいの姿勢が求められる。そんな話は過去何度も読んだし、これこそ器が大きく、懐が深いリーダーの処し方なのだと感服する。
しかし、自己肯定感や自己重要感が低い人が生真面目のこの教えを受け止めると、「自分はダメなんだ」と自分を責めてしまうリスクがあるとも感じている。
ゆえに「人のせいにしない」とは、ポジティブな思考のみならず、実はそれなりに大きなリスクもちゃんと伴っていると思えてならないのだ。
今日はそんなお話をば。
善悪どちらに振り切っても何かが壊れる。
実際、この教えは「人のせいにしすぎるとゴミ人間になりやすく、自分のせいにしすぎると心が壊れる」という難しさを伴う。どちらに振り切ってもよろしくないのだ。
世の中、どう考えても、自分のせいではないことも存在する。しかしその場合も、他人のせいにも、まして自分のせいにも”し過ぎない”バランスを保つことが肝要だろう。
こういう状況下でも慌てず騒がず努めて冷静に、犯人捜しの前に、今何ができるかをまず考える。物事を一歩引いて見ることが大切。これは言わずと知れた真理だと言える。
しかし同時に、なぜその状況が起きたのか、”自責や自罰を伴わない観点で”考えることも、同じくらいかそれ以上に重要だと僕は考えている。
こう考えていくと、あることに気が付く。
人のせいにしたい自分から、そして徹底的に自分を罰したい自分から、それぞれ等間隔に距離を取ろうと努めた際、実は同じ地点に行き着くのではないか。
他責も自責も、煎じ詰めればどこまでも感情的だ。感情を切り離し、物事を冷静に眺めることで、適切な判断を下せるようになる。
「人のせいにしない」とは、他責に終始しがちな自分の心を引き戻して俯瞰せよという助言に留まらず、「かといって自責に徹するな」という中立な教えに聞こえてくる。
人のせいにする奴らの話を聞くのは愉快ではないはずなのに、自分が似た目に遭うと、それを人に言いたくなる。自分をひたすら責める人もみても、胃袋が酸っぱくなる。
他人を通じてそういった行為の愚かさを学びつつも、自分が同様の局面に立たされるとコロコロと立場を変えたくなる。もはや精神修行だとしか思えない。
僕という個体をさらに俯瞰している存在―いわば、神様に見られているかのような感覚を抱くこともある。他責と自責のバランスをきちんと維持して思考ができるか、と。
逆にこれさえ意識できれば、メンタルの安定度合いがさらに高次のところへ至る。例えば、機嫌が悪い人に出会ったときも、”手段として”、遜って謝ることができる。
謝る行為自体も、感情から切り離すと、単なる動作となる。しかし他責思考で考えれば屈辱だし、自責思考で考えると不毛な自罰になってくる。
このように、人のせいにしない一方で、自分一人の責任としても抱え込まず、ドライに考え、手札を切るような心構えがちょうど良いと言えるだろう。
ここで、羽生善治氏の言葉を思い出す。「楽観はしない。ましてや悲観もしない。ひたすら平常心で。」このマインドの解像度を、日々高めたいと改めて思った。
では今日はこの辺で。