僕は高学歴な人を見ると無条件で身構えてしまう癖があった。正確に言うとそれは今も抜けきってはいないのだが、最近ようやく、意識的に気にならなくなってきている。
大学生の頃はそこそこに愚かな人間であり、例えば広島大学・九州大学の同期と交流があったのだが、そいつらの頭脳がどれほど優れているか、そのときは知らなかった。

彼らが優秀で、そこと比較すれば自分がそうでもないというギャップを自覚したのは、その辺と強く向き合う必要がある塾講師の仕事に就いて以来だ。
同期でこそあるが、僕らは”対等”ではない。その辺を勝手に忖度して、勝手に気を遣うようになり、勝手に萎縮するようになったのは、20代後半に入ってからだった。
―30代を過ぎると、そもそも周りから露骨に学を披歴するヤツが居なくなってきたのもあり、段々とそのギャップを意識する機会自体が減っていった。
僕自身も角が取れてきたのもあり、遠回りをしたものの、あの頃みたく「大学こそ違えど同じ世代のヤツ」として見られるようになったのは30代に入ってからなのである。
そんな拗れた価値観を持つ僕だが、ついこないだ、高学歴(高スペック)に対し、遂に何の感情のさざ波も起こらない瞬間を経験した。
その経験を通じて学んだこと。それは、高スペックをも打ち消し得るマイナスポイントがあるということだ。そこから人生訓のようなものも、僕は得られたと思う。
今日はそんな香ばしい話を書いてみる。
全て吹き飛ばす魔の一撃。

ある芸人のYouTubeを観ていたとき、結構強烈な不潔エピソードが何度も飛び出すという回があり、腹を抱えて笑いながらも、内心思い切り引いていたことがある。
例えば、住んでいる部屋がすぐに異臭を放つ、家に歯ブラシが存在しない、マネージャーから泣きながら風呂に入るよう懇願される、等々・・。
語り手が爆笑しながらだったから良いものの、字面だけならトンデモナイ不潔っぷりである。(ここに書きたくないほど強烈なのも存在する)
そういうあれこれを見た後で、その芸人の名前を調べてみると、Wikipediaに記事があることが判明した。それを読んで驚いたのだが、なんと早稲田大学出身だったのだ。
誰もが羨む、文字通りの高学歴。そのはずなのだが、僕はどうしても、「でも不潔で臭いんでしょ?」が先に立つようになってしまった。
と同時に、僕より圧倒的に上の社会的地位にあるはずなのに、不思議と何もそういった後光を僕は感じなかったのだ。何なら、流石に彼よりはマシとさえ思ってしまった。
そしてここまで考えたときに、僕はハッとした。どれだけ高スペックなものがあろうと、それを一撃で無に帰すどころかマイナスに突き落とすマイナスがあるんだと。
その代表格は【不潔】ではないかと思う。例えばめちゃイケメンな人なのに、風呂も洗濯も歯磨きも嫌いだったら、特殊な癖の人じゃない限り忌避されるだろう。
最近は「風呂キャンセル女子」みたいな言葉があると聞いたが、それを耳にしたとき、僕はすごく嫌な気持ちになってしまった。どんな美人だろうと、それは・・。
これに比べれば、チビやハゲなんてのは些末な欠点のように思えてならなくなってきた。と同時に、不潔とデブの罪深さは思った以上に大きいとも学べた。
―というところまで考えを進めたとき、僕はすごく大事なことを遂に思い出した。僕が等身大の僕で、ヘンに遜らず、高学歴な方々と触れ合えていた頃の感覚。
それは、広島大学や九州大学といった肩書の”前に”、人となりというパーソナルな部分を僕は知ったという点だ。
素直で良いやつで、話もウィットに富んでいて、それでいてだらしないところもちゃんとあって、なかなか倒錯した趣味を持っていて・・・。
そしてその後に僕は学歴の価値を知ったわけだが、「へー、頭もいいんだ!」という風に、それはどこか後付けのステータスという意味合いになっていた。
高学歴な人はやはり、そのステータスの後光があまりにも眩しく、僕みたいな岩の下で隠れていたい虫のようなタイプの人間は、どうしても怯むようなところがある。
だがその人達がもつパーソナルな部分を知ることは、萎縮をかなり軽減してくれる。そういう当たり前なところに、僕はようやっと思い至ったというわけだ。
学歴や容姿・美貌は確かに魅力たり得る。だがそれは決定打には、実はならない。等身大のその人をきちんと観察できる眼が欲しい。
不潔な早稲田卒のエピソードを聞いて、そんな謎のことを思った平日であった。では今日はこの辺で。