今日はすごく唐突だが、罪や恥についての考え方が自分の中で変わったので、それを一度言葉にしておこうと思う。
自分で言うのもヘンだが、多分偏差値で言うと60くらいの水準で、僕は自分の過去のイチイチが嫌いだ。正確に言うと、後悔しているイベントがとても多い。
「今思うと、なんであんなことをしたんだろう?」とか、「どうしてその結果を予測できなかったんだろう?」と、己の未熟さに対し、何度も悔しさが込み上げてくる。
例えば、高嶺の花である人に、己の圧倒的に劣るステータスも考えずに告白し、さも当然の如く玉砕したことなど、思い返せば返すほど恥ずかしい思いが湧いてくる。
あの頃の自分。これを眺める度、恥と罪の意識が9割という印象を僕は持つ。僕という人間の基盤に当たるところは、恥と罪で出来上がっているのだと。
とはいえ、その痛々しさがピークに達したのは18歳か19歳の頃で、その後は少しずつ、恥や罪に繋がる言動は回避できるようになっているのも自覚している。
大学進学を経て広い世界を知ったことが契機となり、恥や罪を重ねることは確かに少なくなった。だが、過去の不快な記憶は、全く色褪せてくれないらしい。
まるで過去の自分が、嫌な記憶だけが綴じられたアルバムを抱え、常に僕のメタに居座り、それを顕在意識に披歴する機会を常に伺っているようなものだ。
そうはいっても、罪や恥は過去に遡って消すことができない。未来の自分を変えることでしか、軽くならない。過去の嫌な記憶は耐えるしかない。
だがそうだとしたら、過去の嫌な記憶を背負ったまま、未来の自分を御し続けるということになる。無間地獄のような構図。これは余りにも、辛くて救いがない。
・・・・ように感じていた。だが、最近、ある不思議な結論に至った。これ自体は実際すごく無責任かもしれないが、そう思うしか無いくらい、僕にはすとんと収まった。
そんな都合のいい話を、以下つらつらと書いていく。
俺だって嫌な思いをさせられることはあるもん。
それは、自分が他人から受けた不快な言動もまた償いの一種と考えれば、過去の罪や恥をそれで清算できているのではないか、ということだ。
例えば僕が今さら、「身の程も知らずに告白してキモい思いさせてごめんなさい」と謝ったところで、それは相手にとっては償いでもなんでもなく、キモの上塗りだろう。
当然、過去の僕も救われない。当人に対する償いは、どこか自己満足なきらいがあり、そうでありながら実際は何の救いにもならないという悲しさを秘めている。
ところが、何も不快な思いは、僕ばかりが加害者としてするばかりではない。頭のおかしい他者、機嫌の悪い他人から、”僕が”食らうこともある。
その嫌悪・不快に関する償いは、99%行われない。僕の感情をクソで汚して、そのままそそくさと立ち去る、いわば精神的な通り魔に等しい。
これを引きずるのももちろんバカバカしいのだが、だからといってそれを意思の力で受け流したりスルーしたり、まして忘れたりするのは結構難しい。
ならばと、「この胸糞悪さで、昔のアホな俺がやったことはチャラっしょ」と思い込んでみることに決めたのだ。
他人に迷惑をかけた。その人に直接償いはできていない。でも、他のアホから自分が迷惑を掛けられた。ならもう、それで良くないか、と。
この世はどこまで行っても因果で繋がっている。巨大なネットワークとして、有機的に関係しあっている。償いなんてのは主観的な思い込みだ。解釈は実は自由ではないか。
こう思うことで、今の自分の状況が、多少なりとも公平に感じられるようになった。僕の罪と恥は、僕が背負う。他人からの罪と恥も、僕が背負う。それはなぜだ、と。
例えば、犯罪を犯したら刑務所に入れられる。それは、過去の罪を別の形で償うということだ。そして似た構図で罪とか恥を捉える方が、何かと建設的である。
こういった考え方に突然至ったのは不思議だが、結果自然と嫌なことを受け流すのが少し楽になり、また過去の自分を少しは許せるようになった。
もちろん、この考え方は大変虫が良すぎることかもしれない。しかし僕は何も、イジメやアンチ活動といった、取り返しのつかないことをしたわけではない。
これらは場合によっては刑事罰で処分されるが、例えば過去にちょっと他人に嫌と思われることを言ってしまったという場合は、反省して今後改めるしかないではないか。
むしろ、そうとでも思わないとやってられない。【門】の宗助と御米みたいに社会の罪人として生きるには、僕の咎など鼻で笑ってしまうほど軽いものなのだ。
自分の過去が嫌いすぎるのはうそ偽りない本心だが、それはどこまでも主観的で、客観的に見たら「なんでそんなことで・・」と呆れるだけだろう。
悲劇の主人公を演じたいだけという、僕が抱えている歪な欲望が判った気がして、心が急激に萎えたのを感じている。
ところで、僕は以前から子供(もとい幼稚な言動が目立つ人全般)が嫌いだと言っている。その理由は、過去の嫌いだった自分を、強く想起させるからだ。
しかし、解釈を変えれば、彼らが道化になることで、僕に不快な感じを与えてくれて、結果僕の過去の罪を代わりに精算してくれているようなものだと思えてきた。
もちろん、腹が立つことばかりだが、と同時に、心のどこか冷静な部分で、哀れみとかそんなではない、純粋な感謝の気持ちも湧いてくるようになった。
過去の罪や恥は、今の自分が実は懲役刑みたいに、別の手段で清算している。こう思うことで初めて、僕は理不尽さを少し和らげられている。
では、今日はこの辺で。