精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

めんどくささの正体とは、「妄想が作るストレス」に過ぎないのかもしれない。

今日は自分の心の中で起きている「謎の悟り」について、言葉にしてみようと思う。より正確には、「達観」とか「諦観」と表すべきだろうか、とも思う。

 

突然なんだという話だが、火曜日、水曜日、木曜日の仕事を思うと、割といつでも気が滅入る。接していて苦手なタイプの子供が、大挙して押し寄せるためだ。

 

一時期は人に任せようとしたが、色々あってつまり僕が管理しなければ回らないことが発覚したため、もう逃げられないと腹は括っている。

 

しかし、だからといってストレスが無くなるわけじゃないので、どうしても3日間はそこそこ憂鬱で、木曜が終わるとかなり安堵する。このループは長いこと続いている。

 

時には、月曜日の夜からすでに心が重くなり始めるときもあるほどだ。休日の後半からぬたりとこの影は忍び寄り始め、僕の精神を搔き乱す。

 

長い間この「面倒」という感情をどう御したものかと苦心していたが、最近急に、ある悟りに至った。

 

これが結構精神衛生上良いものだと我ながら思うなので、以下つらつらと言葉にする次第である。

 

 

全ては自分の心がどう捉えるか、という話。

少し禅問答みたいな考え方だが、これらの日々は”客観的に”、”絶対的に”面倒なのかと、ふと疑問に思ったのだ。

 

例えば保育士であれば、これはただの日常の一幕になるように、この構図ならば則ち”面倒”という帰結は、シンプルに引くことはできないのではないか。

 

そこから考えを巡らせると、遂に行き当たった。それは、「”自分が”火・水・木が憂鬱だと、単に思い込んでいるだけではないか」ということだ。

 

実際、冷静に振り返ってみると、その現実が想像よりも面倒なことは極めて少なく、意外とあっさり終わることがとても多い。

 

しかしなぜ、毎週毎週「面倒」という感想が先立つのか。恐らく、単に自分の妄想によって、思い出補正みたく「めんどくさい補正」が行われているのだと考えている。

 

近いのは、病欠によって学校や仕事を休んだ日のメンタルだ。体調が快復に近づいても、欠勤している以上、病人を演じる必要性をどこかに感じるのと似ている。

 

となれば、その感情自体を受け入れつつも、バイアスが掛かっていることを自覚することで、もっとストレスフリーに考えられるのではないかと、今は仮説立てている。

 

実際、めんどくさいという先入観がとても強い仕事ほど、実際に手をつけてみるとあっさりカタが付くことが多いものだ。

 

これ自体もバイアスによる先延ばしだとされており、結局そこに打ち克つには意思の力が必要だったり、いいからやるという淡々としたスタンスが大事だったりする。

 

日々のストレスを生んでいるのは、自分の考え方そのものだ。どこかで聞いた話だと思ったが、そういえば『嫌われる勇気』に似た話が書いてあった。

note.com

 

賢人のセリフ通り、「世界はシンプルであり、それを複雑にしているのはあなた自身」という言葉が今になって納得できる

 

とはいえ、自分がこの世界にいて、そこで思考を行う限り、バイアスに気づくことはとても難しい。しかし、その可能性に気づけたことは、大きな発見だと思う。

 

この気づきが、自分にとってかなり重要なものであると、正直直感に過ぎないのだが、今は確かに感じている。ということで今日はこの辺で。

 

 

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