今日はあえて、手垢だらけのテーマについて記事を書いてみたいと思う。それは聞かない方が珍しい、「努力」という言葉についてだ。
特に令和の昨今では、泥臭い努力はどこか毛嫌いされているというか、ナンセンスなヤツの行動原理の特徴という風に、マウントの根拠として扱う風潮を感じる。

むしろ、最小限の努力で最短ルートを目指せればそれこそが至上であり、科学が発達した今においてはそうしないと失礼だ、とさえ言い切る論も聞いたことがある。
実は僕自身も、20代半ばから後半にかけて、そうした「効率厨」と揶揄されるような考え方をしていた時期がある。
その頃は今とまるで異なり、精神論や成功体験に興味がなく、科学的な根拠に基づいた、端的に言って”答え”を求めていた。
大体のことには絶対解が既に存在しており、僕の人生がどこか冴えないのは、それを知らないせいだ。そんな謎の強迫観念に基づいて勉強を重ねた記憶がある。
しかし、3年間に亘ってそういった時期を過ごしてみて、結果として勿論無駄ではなかったものの、逆に遠回りをしてしまったなぁと、そんな勿体なさを感じている。
今日はそこから話を深めていこう。
基本原則を知らないのに解答だけ読んで賢くなったと錯覚するアホ。
例えば、当時読んだ「小さなチーム、大きな仕事」という本が、まだ手元に残っている。これは「脱社畜ブログ」の管理人がオススメしていた本だ。
内容は分かりやすく、学びと刺激も多くてとにかく好きな本ではあったが、管理職となった今改めて読み返すと、当時は気づかなかった教えの多さに愕然とする。
これを通じても思ったことだが、泥臭い努力とは、言い換えれば可能性を広げておくことに他ならない。もっとシンプルに考えれば「人生のネタ集め」だと言ってもいい。
もちろん、努力自体を通じて、自分の中でうまくいった、いかなかったというジャッジをしていくことも大事だ。基礎的な力は伸ばしておくに越したことはない。
ただしそれにプラスして、純粋に”ネタ”を蓄えておかないと、本を読んでも動画を観ても、何の琴線も揺さぶられないだろう。
受験のように、パターンを見抜いて公式にただ当てはめれば答えが出る類の問題は、現実社会においてはとても少ない。仕事や人生には、単純な公式はほぼ存在しないのだ。
努力していないと、本当に何も生まれない。仏教の「空」の概念に似たものを僕は感じるが、可能性自体を広げておかないと、何も生ずることはそもそもないのだ。
かつて理解できずに放り投げた名著も、10年くらい時を経た今読み返すと、まるで違った輝きを放っていることなどしばしばだ。それゆえ、再び買い直すこともある。
こう考えると、間違っている、迂遠の、無駄な努力でない限り、努力とは無条件に重ね続けて全く問題が無いと解釈して良いように、僕は捉えている。
だからこそ、そもそも論に立ち返るのだが、努力を無条件に苦しいもの、辛いものと捉えてしまうのは、色々と勿体ないのではないかと考えている。
辛く苦しいのが努力だと最初に思い込むと、その後は全て、まさにその通りになってしまう。これは斎藤一人さんの教えでもあるが、僕自身もその通りだと思っている。
辛いと思えばそこで思考は止まり、楽しくしようなんて工夫もしなくなる。学習性無力感が発動し、辛さに甘んじたまま、省エネで乗り切ろうとするようになってしまう。
こうなれば厄介で、辛さ自体が固定された感覚となり、本当に救いがなくなってしまう。だからこそ、少しでも楽しく努力をする方法を見つけたいと常々思っている。
そのためにどうするか。僕の考え方としては、必ず実験的な要素を取り入れることで、努力自体が面白さを帯びてくると感じている。
例えばポスティングの仕事でも、ただ配るだけでなく、効率的に回る方法を考えたり、短時間でより多くの部数を配る工夫をしたりするだけで、楽しさはまるで異なる。
こうした実験的な要素を取り入れることで、少なくとも僕は、皆が煙たがる「努力」と呼ばれる過程の部分が、遊びのように楽しく感じられる。
逆に、仮説や問いが生じないものは、それはそれとして完全に割り切っている。健康のために嫌いな野菜を食べるようなもので、先の目的を見据えて我慢することも必要だ。
まとめるなら、努力には様々な向き合い方があるが、工夫次第で如何様にも楽しくする余地がある。もちろん耐え忍ぶという覚悟を決めるのも一つの手だ。
しかし、1回でも報われれば努力自体が褒美となり、自然と取り組むことができるという特性上、始めの第一歩もどこか楽しいという感想を持てるものがいいのではないか。
そこに難儀している人ほど、まず実験的要素を取り入れてみるのが建設的な取り掛かりになるだろうと、僕はそんな風に考えている。
では、今日はこの辺で。