今日は少し変わったテーマだが、「次はこれを勉強してみよう」と誓ったことについて、温度が冷める前に備忘録として書き残しておく。
僕は以前から、子供や子供じみた言動をする人が苦手だと公言している。これは何か理由があって「嫌い」というより、潜在意識に根付いた「嫌悪感」に近い。
例えばクモや蛇を忌み嫌う人は多いが、なぜそうなのか、論理的に説明できる人を僕は知らない。こんな風に「嫌い」と「嫌悪」は、似てるようでちょっと違うのだ。
そのため、この感情の原因を分析することは非常に難しく、そもそも意味があるのかどうかさえ、最近は懐疑的だったくらいだ。
しかし最近、ここを深掘りするにおいて、新しい観点になる言葉を知った。それは「同族嫌悪」だ。今日はそれについて調べてみようと”決めた”という、謎の記事である。
似ているから”嫌い”。
同族嫌悪とは、自分と似た要素を持つ人に対して、嫌悪感を抱くことを指す。これについて、人間心理を少しでも齧ったことがある人は、違和感を覚えるのではないか。
実際のところ、一般的に言えば、人は本来、自分と似たところがある人に親しみを感じるとされる。「類は友を呼ぶ」というのは、言い得て妙な言葉なのだ。
例えば、心理学で「ミラーリング」という手法がある。相手の仕草や言動を意図的に真似することで、狙って親近感を高める効果があると言われている。
そしてこの現象は、性愛の有無関わらず、自分が好意を抱いている相手に対して無意識に行われることでもあるという。
気付けばある人の仕草に似てくるとか、言動がどこか似てくるのは、その人に対して少なからずポジティブな印象を持っている証なのだ。
(※言い換えれば、自分の言動・仕草が相手に移ったとき、いわゆる【脈ありサイン】となる。余談だが、僕はこの言葉自体、実はすごく嫌悪感を覚えてしまう。)
しかし、「同族嫌悪」の場合、自分と似ていることがかえって嫌悪の対象になる。そして僕が嫌悪感を覚えるあれやこれやは得てして、実は自分の過去の投影なのだ。
例えば、僕が不快に感じる言動・仕草の中でも最たるものは、ネット弁慶の言動だ。猛烈に恥ずかしいし情けないが、僕もかつて、炎上や祭りが好きだった時期がある。
痛いニュース、哲学ニュース、ハム速。そういったところで仕入れたネタを喜々として仲間内に語る自分に、願わくば最速風神拳を食らわせたいくらいである。
そういった行為の愚かさ、恥ずかしさ、情けなさ、身にならなさの全てを、10年以上経った今、強く強く実感している。
すなわち、今の自分にとっては「ペンタブラックのような濃さの黒歴史」に他ならない。できることなら歴史から抹殺したい記憶の一つだ。
ただ、一応別のブログで何度か自分で自分の傷を抉るような気持ちで内省したり、人生を丸ごと4万字くらいで振り返ったりして、一応受け入れること自体はできている。
しかしながら、たとえ生理的に嫌いな生物が、無視すれば無害だと頭で理解したとしても、好きにはまず転じない。
実際、僕のそういった恥の記憶も、胸を掻きむしりたくなるほどのトラウマとして立ち上ることは無くなったが、折に触れて蘇る生理的な嫌悪感として、強く残っている。
もはや本能の域にそれは刷り込まれているのではないか。熱いものに触れると、脊髄反射で手を引っ込めるように人間はプログラムされているが、もはやそれと同じだ。
このように、僕の嫌悪感の理由が、相手が過去の自分を彷彿とさせるからだと考えると「同族嫌悪」という言葉は、僕にとってとても示唆に富んだ概念だ。
今後はしばらく、このテーマについて学んでいきたいと思う。そんなことを誓ったという記事であった。では今日はこの辺で。