今日はこれまで以上に、僕個人のことを話す記事になると思う。
僕は今33歳だが、2年ほど前から2024年度を一つの区切りとしようと決めていると、何度か書いた。2024年という数値に深い意味はない。ただの仮置きのようなものだ。
なぜここを区切りとしたいかというと、単純に僕自身が年齢を重ねてきているからである。気付けば若手の域を超えて、中堅のところにまで、僕は年を食っている。
それを強く自覚する事件があったわけではなく、例えば生徒の満足度アンケートなどを通じて、自分も若い頃とは色々変わりつつあるんだな、という風に納得したのだ。
「この先生が好き」的な項目において、大学生のそれに完敗する。それは僕が何か失態を犯したというより、時間の経過による自然現象なのだとは思うが、色々と考えた。
考えても考えても、10年後、20年後に、自分がいわゆる【講師】をしている未来がやっぱり見えない。そこに言語化された理由がついていないか、勘がそう告げている。
―言語化が全く済んでいない。それゆえにこれは難産な記事であったが、ChatGPTの力も借りつつ、以後頑張って言葉にしていく。
グッバイ若さ。
時の経過による、間柄の変化。それを自覚する出来事が、先日もあった。成人した生徒を連れて酒を飲みに行った際の話だ。
集合時間の関係で、しばらく二十歳の女子生徒(だった子)と二人で他の子を待つ時間があったのだが、僕は何故か落ち着かなかった。
その子に異性を感じたというキモい理由ではなく、単に構図ならパパ活のように見えると不意に気付いてしまったからだ。
おじさんの横に女子大生がいる。しかもおじさんの方は無駄に小綺麗な恰好をしている。これもこれで被害妄想全開で、いささかキモいのだが。
僕は、20代の僕とは、色々と変わってしまった。先のエピソードもその一つだが、30代に入って数年、その実感は日増しに強まり続けている。それは仕事も同じだ。
若い頃の自分は、教育のために人気という面を追えば良かった。しかし今は、教育のため、会社の存続のため、担わなければいけない部分が変わっていると感じている。
僕は校舎長だ。同時に、現場に立つ講師でもある。担当は管理・運営と授業。僕は授業のために管理・運営をしているのか、それとも逆なのか。答えは明白だ。
僕が負うべきは管理・運営である。授業はそのための手段の1つであるべきだ。だからシビアに問う。僕が授業をすることが、利益を最大化する手段なのか、と。
そのとき思った。「僕以上に授業が上手い人はいる。しかし、僕ほど深く、そして厳しく「存続」について悩む者はいるのだろうか」、と。そんな疑問に行き当たった。
その裏付けとなりそうな話が一つある。去年の成人式のとき、晴れ着や派手な袴姿の生徒が何人も、成長した姿を見せに来てくれたのだ。白状すれば、目頭は熱くなった。
すっかり成長し、背丈も伸び、垢ぬけた格好で、あの頃の思い出を楽し気に語り合う教え子たち。その対比は本当に感動的だった。
あの頃の日々がこの子たちの中で息づいている。喜怒哀楽の感情も、それに付随する物語も、全て。美化されている部分はあるだろうが、それでもまだ、残っている。
―と同時に、この校舎という場所が”在る”ことの意味の重さを、僕は実感した。ここには多くの人の、数多の物語と思い出と歴史が染み込んでいるのだと得心したのだ。
僕の代でそれを”時代の変化”という言い訳で潰えさせてはならない。"在る"ためには、側を変化させてでも、時代の変化、競争の激化に適応し、勝っていかねばならない。
そのとき、改めて考えた。僕が授業をすることが、利益を最大化する手段なのか、と。マネジメントに軸足を置いた方が、僕はきちんと務めを果たせるのではないか、と。
それを考えるために、社内の様子を観察してみた。そして気が付いた。皆僕より授業が好きだ。その時間、皆は生き生きとしている。そして、輝いている。
授業をしていたい、その質を追求したい、生徒の成績を高めたい。そしてそれを一緒に喜んだり、奮わなければ一緒に悔しがりたいんだ、と。
具体的なエピソードがあるわけではない。一挙手一投足、生徒とのやりとり、表情、その全てからにじみ出てくるものを、僕が察知しているという感じだ。
そのコントラストで気付かされた。僕は彼らほどの情熱を、実は持っていない。正確に言うと、授業だけに集中することが、どうしてもできないのだ。
テストにどんな問題が出るか。どうすれば理解してもらえるか。それら自体は勿論大切だし、考えていることも多い。
だが僕はそれ以上に、生徒数が何人になればどれくらいの利益になるのか、皆に給料を払えるようにするためにこの支店ではどれくらい稼げばいいかが、凄く気になる。
そしてそういった数値が改善していくと、僕は嬉しく思う。逆になれば、感情は下に触れる。僕が一義に置いていることは、全ては校舎の存続と繁栄だ。
生徒の成績が上がると嬉しい。それはその生徒と保護者の喜ぶ顔が目に浮かぶから、と同時に、この塾の評判が上がり、より良い広報に繋がるからだ。
自分の指導が、生徒の頑張りが、この校舎の存続と繁栄にどう結び付くか。それを抜きに僕は仕事に当たれない。有機的に繋げて色々考えることが、自動化されている。
僕は、ただ一心に”講師”という働き方へ集中することが、良くも悪くももうできないようになっていたらしい。立場が人をつくるというが、それは僕も例外ではなかった。
・・僕は僕という人間をなるべく俯瞰した結果として、いい意味で年季の入った、いぶし銀の輝きを持つ講師として、生徒に何かを伝える存在には”ならない”と確信している。
むしろ、ただ話したいことを相手の反応に関わらず一方的に喋り続けるような、そしてそれを好意的に受け取ってもらえないような、そんな爺になる気がしている。
勿論、世の中には40代や50代になっても自分の塾を持ち続けている塾長もいるし、それはそれで尊いことだと思う。
しかし、では僕がそうしたいかというと、全くというほどではないが、「違うなぁ」という印象を強く抱いてしまう。
違和感を抱えたまま仕事をするのは、そこそこにキツい。だから期間は適当だし、深い意味など無いのだが、「2年で引退準備をする」ととりあえず決めて、働いてきた。
心境の変化は少々あって、そこで”終える”と思っていると、見える世界が何か異なって感受できる気がしている。どこまでやって、誰に繋ぎたいか、よく考える。
新しい指導のアイデアをまだまだ得られてもいるので、引退という決断が惜しくなるときもある。だがそれを”僕が”することは、別にマストではないという納得もある。
講師という枠組みを超え、次なる使命感が僕の中で形になり始めている。僕はやはり、自分が必要とされるもの、自分が関心を持てるものを、追いかけたい。
この俯瞰は、僕が人間的に醸成した証なのだろうか。ならば、目先の人気とか短絡的なものを追わなくなったという、ポジティブな変化が自分に訪れたことになる。
そうであることを、僕は願って止まない。
引退と引継ぎとその後について、真正面から考えてみる。
引退と引継ぎ。口にするのは簡単だが、実行するのは大変難度が高い作業だ。仔細を詰めれば詰めるほど、するべきこと、考えるべきことが無数に展開していく。
いつまでに、どうやって、何をもって、完了したとするのか。顧客への説明責任はどうすれば果たしたことになるのか。だが、これらは本当に一部だ。
その中でもドミノの1枚目に当たる問いが、実は一番難しい。それは、誰に引き継ぐか、そしてそれはなぜかを言葉にすることだ。これが想像以上に難しい。
こういうとき、社内から具体的な顔ぶれを考えても仕方がない。仕方は無いのだが、僕は僕より一回り若い人、できれば女性講師にバトンを渡したいと、何故か考えている。
理由は、今までそういうキャリアを歩んだ人が、この会社には居ないからだ。これまでの誰とも違う視点、キャラクターで、校舎を盛り上げてほしい。そんな気持ちがある。
その気持ちの理由は何か。それは、僕こそがこの校舎を歴代最強の水準まで引き上げられる、なんて思っていないためだ。僕は今の職務を、”中継ぎ”だと考えている。
だから、僕は早くバトンを渡したいのだ。人気も取れつつ、実力もまだまだ伸びる年齢の内に、長として責務を負うことはその人の成長にも大切だろうとも思う。
もちろん僕も、耄碌までしているわけじゃないので、並走しつつ必要最低限のサポートをしたい。
その上でその人が独立したいと言えば、僕はそっと居なくなればいい。それだけの話だ。ここまで書いて思ったが、僕は僕がしてほしかったことをしてあげたいようだ。
ただし僕自身のその原体験については、書くと話が無茶苦茶反れていくので、ここでは触れないままにしておく。
―そうやってサクセッションしたとして、では僕は何がしたいのだろうか。それを知るためにはまず、そもそも僕は何に充実感を覚えるかを考えた方がよさそうだ。
僕が楽しいと思えて、僕が得意だと自負できて、そして社会にも求められるものは、果たして何か。これら三つの円が重なり合うニッチは、一体何なのだろうか。
僕は学びたいのだろうか。それとも教えたいのだろうか。これは簡単に答えが出た。僕は学び続けたい。これまでも、"学ぶ"こと自体は、ずっと面白いと思ってきたからだ。
教えるよりも学ぶことが先に立つ。僕の学びが、社会にどんな価値を生むだろうか。それをきちんと設計しなければならないように思う。
勉強は一つのツールだ。僕はもっと広く深い意味で、”学び”を教えられないかと自問自答する。その人が知りたいこと、辿り着きたいところへ至る方法を探し、伝えたい。
そう思えば、僕がプロ中のプロの講師、例えば東進ハイスクールの林修先生のような像をキャリアの終着点に据えたくないのも、段々腹落ちしてくる。
僕は僕が仕入れた知識を”ただ”語ることにあまり興味が無いようだ。むしろ、伝えたことが一つのきっかけとなり、その人自身の新たな学びが育ってほしい。
本心から憧れを強く持って思うのは、そういう指導の仕方だ。それと反対に、答えを端的に、カリスマ性たっぷりで伝えることを目指すのは、どこか僕にとって”嘘”を孕む。
だから逆の視点から考える。僕がこの仕事を通じて、一番幸せを感じるのはいつだろうか。生徒が志望校に受かったときも勿論なのだが、そこがピークではないとも思う。
そして分かった。初めて出会った日から、格段に成長した姿を見たときだ。学びと挑戦に富んだ日々を、その口からきいている時間が、一番僕は嬉しい。
僕は昔、「先生のおかげで」という言葉が嫌いだと書いた。生徒からそういわれると、内心嬉しさよりも、どこか歯痒さが勝る。
「幸せになる勇気」で賢者が指摘していたように、そのセリフはつまり、先生への依存を意味する。独立こそが教育の目的なら、この言葉は教育の失敗を意味するためだ。
・・だが、一人の独立した大人になった生徒から、再会する機会を設けられるのは違う。先にも述べたが、これは僕にとって幸せな時間に他ならない。
これらを考えると、導き出せるもの。僕は生徒たちに何かを伝えたいんじゃない。”育ってほしい”んだ。変化を歓迎し、成長を続けられる大人に、なってほしいんだ。
結局人を救い、成長させてくれるのは、主体的に起こしたいと思った変化だけだ。そして変化を繰り返すプロセス自体を”育つ”と呼ぶなら、僕は皆にそうなってほしい。
教えることは目的ではない。手段だ。その子が知らない世界がまだ外には広がっているということを、そっと伝えてあげる。そこへ漕ぎだすかどうかもその子の自由だ。
世界が広がるのは何時だって、自分の閉じた世界が、他の人たちが築いた世界と接点を持ったときだ。それは読書、映像、会話、あらゆる形で達成できる。
僕は教えることを通じて、人の育成に関わりたい。成長を見たい。だから、それを達成し得る、一つの場所を創造したい。
何かがどんどんと繋がっていく感覚がある。これが僕の、平たく言えば”夢”なのだろうか?・・・もちろんこれは、僕の理想と書けば恰好はつくが、所詮机上の空論だ。
例えば、僕が運営に集中したらどんな歪みが生まれるか?利益はどう出すか?代打・代替要員はどう確保するか?事業計画をどう立てるか?こういった問いはまだ山積だ。
そして自分が定めた期限たる2024年は、もう少しで終わりとなる。年度となれば区切りまでまだあるのだが、時間はやはり、無い。せめて、何を決めるかを決めよう。
僕は昔、「2024年を境目として、実際はどうあれ、僕は”意識の上で”講師としての自分に区切りをつける」と宣言をした。これを撤回する気は、今も無い。
2024年である理由は、繰り返しになるが特にない。とはいえ、言ってしまったからこそ引っ込みがつかなくなっているわけでもない。
「もう決めたから」というただそれだけだ。そしてそう定めてから日々を送るうちに、偶然ながら「妥当な準備期間だな」と納得しつつあるから、というのもある。
しかし今僕が居なくなることは、ただの無責任な逃亡に等しい。逃亡はしないが、区切りをつけるには、さてどうしたものだろうか。
だから、まずはここでいう区切りをしっかり定義づけすることにした。色々考えたが、一つこれは、それになり得るだろうというものを見つけた。
それは僕の今後を言語化することだ。2024年内に、僕は僕がどんなことをこれからしていくのか、言語化を完了する。これを僕にとっての区切り、引退と代えよう。
今日は色々と内省が深まった。実はこの記事自体に着手したのは10日以上前なのだが、全く考えが深まらず、本当に難儀した。
ひとたび手が動き始めたら、結構な深さにまで至れたように思う。もっとも、まだ鉱脈には辿り着いていないという思いもあるのだけれど。
このテーマは今後も何度も考えよう。考え抜いて納得しきってからじゃないと、強い後悔と嫌悪感を覚えて終わりだろう。
だがまずは、2024年内に僕の今後をきっちり言語化しきって、僕なりの区切り、講師としての僕の引退を終える。ひとまず、これを目指すこととする。
では、今日はこの辺で。