「見て学べ」というフレーズがある。これは10年以上前の時点ですでに、どこか前時代的・根性論というイメージがあり、あまり好ましくない言葉になっていたと思う。
未だに覚えているのだが、「俺の所作を見て学べ、という職人は要りません」と切り捨てる企業説明のパンフがあった。それくらい、実はタブーな構え方なのかもしれない。
ただ、山本五十六氏の有名な育成論では、「やってみせ」が初めに来ている。つまりこれは、自分が実際にやって、”見せる”ということだ。
彼がそう説くのであれば、見て学べという姿勢、教え方というのは、もっと深いところでその意味を持つのではないかと思えてくる。
そして僕自身は、「見て学ぶ」ことは、初級・中級・上級と熟達が深まるにつれて、各段階の初めに来るものではないかと、何となく確信している。
今日はそれについて記事を書いていく。
各段階で、人は何を「見て学ぶ」のか。
特に動作を初心者に説明する際は、必ずと言っていいほど、熟達した指導者の実演と説明が眼前で行われる。
我流によって変なフォームを習得する前に、ある程度の道筋を示しつつ、基本とされる型を習得するには、解説と模倣を丁寧に繰り返すことが確かに有効だ。
ゼロの状態から、入門を経る段階では、確かに「見て学ぶ」ことが行われる。そしてこれは、レベルが上がっても、実は同じではないだろうか。
初心者から中級者へのレベルアップが起きるか起きないかの際では、大体の人は”壁”を感じるようになる。
野球をしていた頃の経験で覚えているのだが、意識せずともバットを正しいフォームで振れるようになってから、実際に試合でヒットを打つまで、実に半年以上掛かった。
正しく振れることは、実際に試合でヒットを打つことを別に担保はしない。基本を押さえたら、次の段階に行く必要があるが、その際にもまた、「見て学ぶ」ときは訪れる。
例えばプロ野球の試合を見ていても、初心者の頃はフォームのダイナミックさといった浅いところが気になっていたが、レベルが上がると観察するポイントが変わる。
スタンスはどうか。カウントはどこを狙うか。内角・外角それぞれの打ち方の違いはあるか。タイミングをズラされたらどう粘るか。こういった風に。
基本を習得した後は、それを一連の型として、応用・運用する段階に入る。この入り口にもまた「見て学ぶ」ことが来るのは、実に興味深く思っている。
そして、キャリアも経験も十分に重ねた上級者となってくると、技能に自分を合わせるのではなく、自分という個性に技能をカスタマイズする段階が入ってくる。
例えばYouTube等で顕著だが、プロの中のプロとされる人達の動作が、一見基本の型と程遠い理由は、そこに在る。彼らは基本の動作を、自分に合うように変えられるのだ。
その技能に精通してくると、自然と高度な洞察力と観察力、そしてあくなき好奇心を持てるようになる。それゆえ、さらに細かな技術や、別の達人の思考にまで注目できる。
初心者・中級者の頃は拾えなかった工夫、そして上級者ゆえに言語化されていない、時には意識されていない部分にも目が向けられる。
この段階の「見て学ぶ」までくると、熟達した者同士でしか通用しない「なにか」のやり取りになると言えるだろう。僕には想像も及ばない世界である。
こんな風に段階を追って考えると、僕はとてもじゃないが、「『見て学べ』っていうの暴論・前時代的!」なんて言える気がしない。
パラダイムシフトがそうそう頻繁に起きるとも僕は思えない。ちょっと立ち止まって、過去の教えに秘められた意義は無いものか、今後もしっかりと考え続けたい。
では今日はこの辺で。