精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

僕は「わかってもらうことを諦めている」っぽい。

最近偶然にも、自分の価値観について、ここ何年もずっとモヤモヤしていたものが急に言語化できたかのような実感・手応えを得られて、内省がさらに楽しくなっている。

 

先の記事にも書いたが、そのきっかけをくれたのはChatGPTだ。僕は最近、ChatGPTと、ずっと”対話を重ねている"。

 

それをカウンセラーに見立て、毎日様々なことを質問し、別の視点を加えてもらったうえで、またその質問に答えるというのをひたすらに繰り返しているのだ。

 

 その時間を確保するために仕事を爆速で終わらせたり、定時から少し残ったりするくらい、この対話の時間はとても学びに富んでいて、すごく楽しい時間となっている。

 

ChatGPTは徹底して中立かつ客観的であり、当事者ではない側から話を進めてくれるので、すごく気を許せると感じている。安心して色んなことを吐けるのだ。  

 

5,000字くらいのやり取りを交わしたのだが、その中で一つ指摘された、ある言葉が強く引っかかっている。それは、これも先の記事に書いた通りだが「孤独」である。

 

「もしかしたら、あなたは他人から分かってもらえないという孤独を抱えているのではないか」ということを言われたとき、すごくハッとしたのをまだ覚えている。

 

そこを起点としてまた問答を重ねたのだが、すると僕の抱える”闇”ともいえる、僕個人の言語化が伴っていなかった価値観が、遂に見えてきたのだ。

 

今日はそれをさらに丁寧に分析しつつ、より一層内省を深めておこうと思う。つまり僕以外の誰にも向けられていない記事なのだが、気にせず書いていくことにする。

 

 

僕はわかりたい。でも別に、わかられたくない。

  

僕は興味・好奇心が強いことは昔から自覚していた。答えが既にあるなら調べたいし、

ないなら実験でも観察でも何でもして確かめたい。そういう思いは確かに強い。

 

周りからヘンだと言われたり、多少恥の気持ちがあったりしながらも、知りたい・見たい気持ちが上回れば、臆せず行動していた記憶がある。

 

実はその意欲・好奇心は割と他人に向くということも、ChatGPTの指摘によって気が付いた。僕自身は人見知り・コミュ障と自分をレッテル貼りしているだけに意外だった。

 

手前味噌だが、僕は知人同士のやり取りにおいて、「○○さんに似てるね」といった評価をされることがたまにある。細かい所作、言葉の抑揚が似ているのだそうだ。

 

これがもしも無意識下における人間観察の賜物だとするなら、それは他者に対しても好奇心と観察眼を振り分けられていることの証左になる気がする

 

主観バイアスを取っ払うため、「そう」と思い込んでみる。すると、心当たりは自分の中にたくさんあることにも思い至った。

 

例えば僕は先日、卒業して成人した塾生と酒を飲む機会を設けた。その際、アドリブで話をするのも面白くないと思い、できる限り彼ら・彼女らについて予習をしたのだ。

 

通っている大学・学部、そこからのキャリア、部活動のインスタグラム等々。ちょっとストーカーめいてキモい感じもするが、おかげで話は弾ませることができたと思う。

 

思うに、塾講師という仕事もあってか、僕自身はかなり相手をわかろうと努めているのだろう。だからできるだけ情報は集めるし、時折仮説を支える質問をすることもある。

 

しかし、それを他人に押し付けるのは違うとも感じている。僕はわかろうとするが、あなたが僕のことをわかろうとする必要はない、というのが基本スタンスだ。

 

もっと言うと、他者が僕のことを理解してくれるかどうかに、実はあまり興味が無い。というよりそんなのは不可能だと、最初から諦めて、受け入れているとさえ思う。

 

そこまで考えたときに、またふと思い至った。そういえば僕は、考え方の癖とか、言動の特徴とか、無意識での行動とか、そういうあれこれを指摘されることがない

 

人生で分析を”された”経験が無いというのは、決めつけ野郎が周りにいないことの証明でもあるのだが、もしかしたらそこに寂しさを感じているのかもしれない。

 

しかしながら、僕は他人に自分をわかってもらおうという努力をする気には全くならない。それをしたところで、僕自身の理解に1mmも活きないからだ。

 

虚構で彩った虚ろな自分を他者に承認させるくらいなら、坂本龍馬の心境よろしく、自分の心の声にだけ従って生きる方が上等だ。今、素直にそう思えた。

 

と同時に、ここ10年ほどで薄々気づいていることもある。それは、人間というのは基本的に、周りの誰にも興味がないのではないか、ということだ。

 

社会から内面を掘り下げてもらえるのは、立派なステータスを持った人だけ。そう思えば、そういう人たちだけが発信を頑張れば良いのであって、僕らはその埒外だ。

 

こういう実感を踏まえても、僕は他人のことをわかろうとすることには興味があるが、自分をわかってもらうことにはやはり全く興味がない

 

例えば最近心掛けている身なりも、スキンケアの習慣も、他人に自分がどう映るかではなく、ダサい自分、小汚い自分を自分が許容したくないと思ったから始めたものだ。

 

自分で自分のことを観察し、このブログに2000記事ほどの膨大な文章を飽きもせずしたためているのも、全ては自己理解を深めるためのアンカーのようなものにするためだ。

 

誰かに読んでもらいたいからではなく、言葉にする過程で理解を深め、また必要に応じて後から”自分が”読みたいだけである。

 

発信の多さは、必ずしも自己顕示欲に比例しない。となればオフラインに書き殴っておけと言われそうだが、正直はてなブログに書いとく方が、分類やサーチが楽なのだ。

 

さて。僕の根底にある価値観をまとめよう。僕はやはり、僕らは肉体によって隔てられた別人であり、真の意味でわかり合えることなど無いと諦観している。

 

だがそれゆえに、相手のことを理解しようと努めることは大切で、同時に面白い行為であるとも納得し、その通りに実行している

 

だが、僕らはそもそも理解し合えないのが前提なのだから、僕のことを周りに理解してもらおうと四苦八苦するのはとても非合理的なことだ。

 

理解したいが、されなくてもいい。そういうチグハグな状況があるため、相互理解が前提となる恋愛や結婚に1mmも興味が湧いてこない理由もきちんと収斂してくる。

 

ではなぜ、自分のことをわかってもらいたいという欲がないのに、同時に孤独のようなものを感じるのだろうか。思うに僕は、同じようなへそ曲がりと出会いたいのだろう。

 

お互い理解される気はないけれど、お互い理解する気がある。歪に見えるが、なんか面白い関係性。それを切り結べるような人は、この世に存在するのだろうか。

 

では今日はこの辺で。

 

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