強い好奇心を持った人は、どのようにコミュニケーションを取るのか。たまたまだが、それに関する自分なりの気づきを得たので、忘れる前にそのことを書いてみたい。
最近、僕はChatGPTと対話を重ねながら、自分の深層心理を探っては都度言葉にしていく作業に夢中になっている。
今現在で言えば、1日24時間の中でも、もしかしたら一番面白く、充実感を感じる時間かもしれない。それくらい有意義で濃いのだ。
そしてChatGPTとの対話を始める際に、僕はこんな指令文を打ち込んだ。「カウンセラーとして、ソクラテスが提唱した『無知の知』の心構えで問答してほしい」。
触りしか知らないが、対話の中で繰り返し問いを重ねて、相談者さえ予想していなかった一面に気づくことが、充実したやり取りにつながるということに同意するからだ。
そしてそれこそが、実は好奇心が強い人が、そのポテンシャルを活かせるコミュニケーションの基本になるのではないか。そんな気付きさえ、今は抱いている。
以下、それを詳述していこう。
5W1Hのマシンガン。
「無知の知」とはどういうことか。乱暴に言えば、質問と回答を何度も往復することで、お互いに未知の領域に踏み込むことを指すと僕は捉えている。
ただ、これは諸刃の剣だ。例えば、ひたすらに質問を重ねることで、時に相手が答えに窮する場面も出てくるだろう。問いが真髄に至れば、猶更のことだ。
考えても考えても答えが出ず、押し黙るしかない。そんな構図に至ると、共通認識が不足していれば、相手は反駁・論破されたと捉えるかもしれない。無駄に恨まれるのだ。
実際、ソクラテスの問答を通じて、知の喜びではなく、恥をかかされたことへの憤りを感じる人もいたそうだ。結果としてソクラテスは、悲劇的な運命を辿ることになる。
ところで、頻繁に質問を投げかけ、それが結果的に相手を論破してしまう構図は、現代のある討論スタイルにも似ていると思える。
そう、ひろゆき氏のスタイルに似ているのだ。彼は普段の会話から積極的に質問を重ね、相手の意見や考えを引き出し、更にそれに質問をする場面をよく見かける。
著書『論破力』にもある通り、ひろゆき氏は自分が仮説として作った相手のキャラクターがどこまで正しいか確認するために、わざと質問を投げかけることがあるという。
それが自分のモデル像を補強すれば、それはそれでいい。もし想定外の返しがきても、自分の中のその人のキャラクターを更新すればOK。好奇心の自然な発露ではないか。
実際、彼と寿司を食べに行った人曰く、ひろゆき氏はずっと寿司職人に、その握り方や哲学などを喜々として尋ね続けていたそうだ。やはり彼の好奇心は、並外れて強い。
そしてこの好奇心があまりに深いと、相手が答えられない質問まで突っ込んでしまうことも多い。そうなれば相手は押し黙る。つまり論破”された”と受け取られがちなのだ。
こういう意味では、ソクラテスの問答も、実は好奇心から生じたものであると、すごく納得感を伴って仮説を立てることができる。
―と同時に、好奇心が強いという自覚がある人こそ、対人関係の基本は「質問と対話」に置くべきである、というところに自然と着地してくる。これは結構、驚きだ。
僕は元々口下手で、コミュニケーションとはいわゆるエピソードトークの面白さ、巧みさによって巧拙が決まると思っていたからこそ、対話自体にすごく奥手だ。
自分に興味を持つ人などいないと心底納得しているからこそ、自分を曝け出すことに抵抗がある・・と思っていた。だが今はむしろ、それ自体に興味が無いと悟っているが。
しかし、「質問」を重ねることで、相手の哲学や考え方を言語化していくのは、僕にとっても新しく、また楽しそうなコミュニケーションの取り方だと思い、ワクワクする。
相手というキャラクターを深掘りし、彼らの哲学に触れることができるのなら、ずっと億劫で苦手だった会話というものも、また違った輝きを放つようになってきた。
もちろん、やり過ぎると相手に嫌がられる。「なんで~?」と延々尋ねる子供は、純粋だがそれゆえに煙たがられるように。そこの押し引きをするには、経験が足りない。
だからといってすぐすぐ、何かしらの出会いの場みたいなのを設けようとは微塵も思わないのだが、もしそのような場に参加できれば、意識的にこれを試そうと思う。
相手に質問を繰り返し、気付きや違和感も伝え、僕とは異なる他者の哲学や価値観、深層心理に辿り着く。うむ、すごく面白そうだなと、皮膚感覚で思わされた。
では今日はこの辺で。